小児性愛者(ロリコン、ペドフィリア)のために考える

小児性愛者(ロリコン、ペドフィリア)のためになることを考えていきます

教育現場こそペドフィリアにはふさわしいのかもしれない

 小児性愛者が教育現場に「潜んで」いるという表現がしばしばされる事を以前指摘しました。そして、特に「潜んで」いるのではなく、真面目に教育に当たっているのだという事も述べました。

 

 彼らは、従事する機関に必要とされる教育課程を果たし、免許等を取得しています。それを忘れてはなりません。資格があるのです。

 

 但し、人によっては、もしくは全員が、対象年齢の子供に共感を持ち、自分の人生における当該時期と結び付けて職場を捉えていることは想像できます。

 

 幼児教育を進路先の専攻に志望するような高校生には、随分と精神的に未熟で、まるで一つのノスタルジーから幼稚園や保育園に行きたがっているのではないかと思われる生徒がいます。

 

 そのような生徒はペドフィリアではない部分からそのように感じているのですが、子供に惹かれてやまないペドフィリアの自己像が「傷付いた子供」だという事に鑑みると、やはり、或るノスタルジーを求めて、対象年齢の子供の近くにいたいとその生徒たちも思っているのでしょう。

 

 そもそも、現代では、子供は昼間、学校空間にしかいないのです。夜も、塾という教育機関に沢山います。見方を変えれば、教育現場に行かなければ子供はいない、教育現場に行けば子供と関係が持てる、訳です。

 子供と関わることはペドフィリアの悲願なのですから、どんなに努力してでも、教育現場に「潜入」しようとする人がいても不思議ではありません。

 

 そして、実際の子供は性的な対象であるだけに収まってはくれませんし、難しい子どもや保護者・同僚と付き合い、世間の目にさらされる教育現場が甘い所である筈はありませんから、仕事に従事していく中で、ノスタルジーは緩和され、子供への向き合いかたも変化していく可能性があります。

 

 逆説的にも、ペドフィリアを「矯正」するためには、実に、教育現場こそがふさわしいのかもしれないのです。

 

 もちろん、これは、小児性愛者を中心とした観点から言っているのであり、一般的には子供中心の観点から、全く反対の意見が出ていることは周知のとおりです。