小児性愛者が自己嫌悪に囚われることは日常茶飯事ですから、何とか日々それをやり過ごさなければならない事になります。
一体、何ができるのでしょうか。
一つには、これまでここで書いてきたような、小児性愛者にしかない長所を無理矢理にでも探すことです。物事は相対的なので、何にも必ず何か、肯定的な面を見つける事ができます。
しかし、人から言ってもらえるならともかく、自己嫌悪に陥っている最中に、自分の良い点を見つける心の余裕はなかなか無いものです。
ではどうするか。
ホメオパシーという考え方があります。
医療の世界では、否定されて久しいものですが、愛用している人はそれでも存在します。普通の薬品と違って副作用がなく、効果を感じている人がいるのです。
思い込みによるプラシーボ効果によって、効き目があるように見えるのだと言われますが、効果があるのなら、プラシーボだろうがスパシーボだろうが、良いではないかと私は思います。
さて、ホメオパシーは「同種療法」と訳される事があります。
熱が出たなら、冷やすのではなく温める。毒に対しては同じ毒を用いて排出を促す。そういう考え方があるからです。
日本人には、馴染みのある方法だとも言えます。
これを心の方に応用するなら、次のようになります。
悲しい時には悲しさを催すような芸術に触れ、恐いときには恐怖を煽るようなものを見る。
それによって自分から回復していくのです。
確かに、例えば太宰治の作品を本当に味わえて、しかも心が軽くなるのは、落ち込んだり絶望しかかったりしている時です。
1970年代のタツノコプロのアニメに「新造人間キャシャーン」というものがありました。
当時のタツノコプロの作品には、いじめや貧困を扱ったような、暗い内容のものが結構あり、作画や色も独特で、子供には素直に楽しめない雰囲気がありました。
いまそれらを見返してみると、大人向けに初めから作られていたのだろうと思われます。
さて、新造人間キャシャーンも、どうにも明るいところのない話です。
ロボットに支配された世界を人間の手に取り戻すためには、新型のロボットである新造人間になって戦うしかないと、主人公は身を捧げるのですが、人間からは正体が露見しないよう隠し続けねばならず、同じ意味で、ロボットに対しては自分が人間だと思わせておかなければならない立場に置かれます。
父親は人質に取られており、母親も、敵ロボットの親玉のペットの中に隠されているという危うい状況の中、自分は人間なのかロボットなのか納得できないような心持ちで、主人公は孤独に戦います。
敵ロボット達と対等に戦えるのも、新造人間キャシャーンしかいません。
ただ、このキャシャーンは途轍もなく強いのです。
孤独な悩みや人間との軋轢の中で、時には太陽電池が切れて動けなくなってしまったりと、鬱屈した苦しみののち、チャンスが訪れて、キャシャーンが反撃し始めれば、圧倒的な勝利を収めます。
見ている者がキャシャーンに感情移入しているなら、大変なカタルシスを感じて、いつかは自分の苦しみも報われるのだという思いが込み上げて、涙さえ出てきます。
ドストエフスキーの作品を読むような感覚といったら良いでしょうか。
ともあれ、ひどく落ち込んだ時には、気分を明るくしようとせず、むしろ暗い気分になるような芸術作品に浸ってみると良いように思います。
『学問のすすめ』の中で福沢諭吉は、芸術を役に立たないものとして退け、直接人生の役にたつ実学を奨励しましたが、落ち込んだ人に実学など却って役には立ちません。芸術とは、そういう時のためにこそあるのかも知れません。