小児性愛者(ロリコン、ペドフィリア)のために考える

小児性愛者(ロリコン、ペドフィリア)のためになることを考えていきます

治ったらどうする?

 Yahooの知恵袋を見ると、ロリコンは治りますかという質問が時々あります。これは何とも言えない話であり、治ると明言する医者もあり、完治は難しいと言う人もいます。

 

 しかし、この質問をよく吟味するなら、「大人の異性を好きになって、子供に対する性欲その他をなくせますか」という意味に他ならないでしょう。これは、「症状」として状態を捉えているからこそ、人ごとのような質問形式になっているのですが、実際には意思や感情にこそ関わっている問題なのだと捉え直す必要があります。

 

 つまり、大人の異性を肉体的にも性格的にも好きになることを心で望んでいるのかと、この質問は言い換える事ができるのです。

 

 すると、否であるとの答えを心はするのではないでしょうか。そうだとすれば、治ることを本当は望んでいないのであり、質問の本意は、社会的に不都合な立場を何とかしたいという意図にあったと言えるでしょう。

 

 社会的に不都合な立場については、社会を変えるという考え方が昨今流行っています。「みんな違ってみんないい」とか、「ありのままのあなたでいい」との言説が同時に流行しています。

 

 けれども、それはペドフィリアには当てはまりそうもありません。ペドフィリアの生きやすい社会など、リアルな子供の人権をペドフィリアと同等に置くなら、実現不可能です。児童と結婚したり、好きにセックスしたりするような方向性に、現代の社会から向かうことは不可能だと思います。

 

 但し、例えば児童婚の行なわれてきた社会体制が悪いとも言えません。現代の特定の価値観・人間観から見てそれは悪いだけです。児童婚の行なわれる社会にはその社会の価値観と人間観があり、もしもペドフィリアがそこに生きることを望んだなら、本人も、児童同様、その枠組みの中に置かれた社会的役割を強制されることになります。

 

 自然に内的な感覚が成長していくような方法があれば、望むと望まざるとに関係なく、成熟した異性を好きになれるのでしょうが、そんなものが果たして存在するかどうか、疑問です。

 

好感と反感

 飼い猫の中には極めて馴れっこいのがいて、顔を見れば寄ってくるばかりでなく、体をくっ付け離れようとしない者もいます。それは、あたかも相手と一体になりたいと体全体で表しているかのようです。好意の塊になっています。

 

 そもそも、好感というものは、その対象に自分を没入させてしまうものです。対して、反感は自他をくっきりと分けて意識させます。

 

 男性のペドフィリアは女の子になりたいのだという誰かの主張を読んだことがありますが、こと好感に関して言うならそれは間違いとは言えないでしょう。ただ、女装や変身ではなく、没我的に自分を相手に投入してしまうという意味なのですが。

 

 もしも子供に近づくことができたとしたら、実際には没我的に相手に溶け込むことなどできないのですから、相手を自分の自我の支配下に置くか、極端な場合には相手を殺し、あまつさえ食べてしまうことにもなるでしょう。没我という点では同一ながら、この反対の極となる、子供の奴隷になるような関係は、空想上にはよくある事ですが、非現実的というものです。

 

 ここにいう意味での「反感」を育てることは、子供へのいわゆる性的虐待を防ぐ方法となり得るものです。認知行動療法も、自分の思考や行動を分析・検討する点で、反感に働きかけています。

 

 仏教の経典には、女性の体や性格に関し、ほとんど悪口と言えるような描写のあるものがあります。これは、読者に男性比丘を仮定しているからであり、性欲から遠ざかるためのものです。

 

 ペドフィリアも一度、子供の良くない点やつまらない点に集中して目を向けてみてはどうでしょうか。世間では子供をあたかも善そのもののように捉える風潮さえありますが、果たして子供はそんなに良いものなのでしょうか。そして、子供の体や性器などもそんなに良いものなのでしょうか。

 

ヴィーガン、サイコパス、ペドフィリア

 日本でヴィーガンと聞くと、面倒でわがままな連中だというイメージが少なからずあるようです。SNSでは、ヴィーガンの主張に対して行われる猛烈な反論や暴言に、枚挙にいとまがありません。

 

 ヴィーガンが何のためにヴィーガンをしているのかを振り返れば、アレルギー等の身体的な理由のある人を除けば、基本的には宮澤賢治の『ビジテリアン大祭』に主張されている事と同一ですし、ヴィーガンへの反論もそこに出し尽くされている感があります。

 

 要は、できる限り殺生をせずに生きたいという思いです。無論ここにも、最新の知見からして、ウイルスは生物なのかとか、どこまでが自分としての肉体なのかなど、命題自体が曖昧になる課題が孕まれています。

 

 ただし、ウイルスや腸内細菌等、ナイーブな感覚には把握できないものを考察対象に取り込むことは行き過ぎではないかと私は感じています。

 

 さて、人が何に対して「憐れみ」を感じるのかには個人差が大いにあります。ミジンコから魚、昆虫、カエルやトカゲ、ネズミ、猫、馬、猿、などさまざまな生き物の写真を並べてみて、どれなら自分の手で殺せるかを尋ねてみればよく分かります。ここに植物を入れても構いません。

 

 下等動物から高等動物までを仏教では「有情」または「衆生」と呼んでいました。ヴィーガンはこれを殺すことに痛みを覚える訳です。ご存じかもしれませんが、植物にもその感覚が広がった「フルータリアン」も存在します。インドのジャイナ教徒は、ヴィーガンとフルータリアンとの中間あたりに位置します。

 

 魚は平気で殺せるという人は沢山いるでしょうが、猫になると減ってくるでしょう。犬の殺処分は許せないけれど、蜂の駆除は推奨するという人もいます。

 

 ヴィーガン側の極に何が位置するのか特定することは困難ですが、反対の極は簡単で、それはいわゆるサイコパスです。

 

 同情心や憐れみの心をどこまで広げるべきなのかという問いに果たして倫理的な尺度が有るものかどうか知りません。しかし、ここまでで憐れみはストップしろと、何かの基準を持ち出して強制することは、人間の発達もしくは人類の発展を考えると、いかにも不条理である気がしてしまいます。

 

 アイヌの有名なイヨマンテについて、可愛がっていた熊を悲しみながら殺す点が重要なのだというアイヌの言葉を読んだことがあります。学校教育でも、同様の考え方をしているのか、育てた鶏や豚などを殺して食べる授業を取り入れている所があります。イヨマンテも、これはその語った人の解釈なのかもしれませんが、学校教育のほうは、そこから何を子供に学ばせたいのか、子供の心にどんな良い影響があるのか、知りたいものです。

 

 乱暴な嫌いがあると知りつつこれをペドフィリアに敷衍して言うならば、肉を食べたら美味しいと感じるけれど、殺してまで食べる気はないという状態と、子供と性愛関係を持ちたいのは山々だが、悲しませてまでやりたいとは思わない、という状態は相似したものではないでしょうか。

 

 子供に性的な視点を向けるのは暴力だと叫ぶ人がいても、あたかもヴィーガンに反対する人の言葉同様、ペドフィリアにとって「美味いものは美味い」のです。

 

 鯨を獲るのは可哀想だ、犬を食べるのは可哀想だ、猫の殺処分は可哀想だ、子供への性暴力は可哀想だなどとピンポイントに慈悲を煽っても上手くいかないと思いませんか。

 

 慈悲心をどこまで拡張できるかということは、道徳心の向上そのものです。ペドフィリアに限らず、全人類の課題でもあるでしょう。

 

 肉を摂らないこと自体が情動の鎮静につながるとインドの宗教で言うように、ペドフィリアは行為としてのヴィーガンから始めてみてはどうでしょうか。

マイノリティーはやり

以下、2023年3月の記事です。

 


キャラと「結婚」2年で200組以上、「二次元恋愛」の今…「恋愛に与える影響は増大し続ける」 : 読売新聞オンライン

https://www.yomiuri.co.jp/national/20230224-OYT1T50172/

 


 こういう人々に対し、「フィクトセクシャル」という名称もつけられているようです。二次元に限らず、相手が人形だったりする事もあるそうですが、人間でなく、実在すらしていない対象に、恋心を抱くのは、別に不思議ではありません。

 

 果たして、わざわざ「性的マイノリティー」としてカテゴリー分けする必要があるのか、私には全く疑問です。性的な対象として専らそういうものに向かう人なら該当し得るのかと言えば、それも疑問です。なぜなら、対象が完全な人工物だからです。観念であったり、制作物だったりは、人がいないと存在のしようがありません。そういうものに恋愛感情を抱くなら、それは何らかの転移として解釈可能でしょうし、それにしか性欲を感じないというなら、それが無い環境では性欲の発現もないという事でしょうか。

 

 「性的マイノリティー」という概念が、最近では、他人と自分が異なることを表すアイデンティティーとして、安易に持ち出されているのではないかという感さえ抱きます。

 

 なぜ取り立てて性にそんなにこだわる必要があるのか、考えるべきだと思われます。

 

 なお、このような人々は、バーチャルリアリティーの技術革新によって、近い将来には自分の性向を容易に満足させることができるようになるでしょう。そして、ペドフィリアもその仲間入りをすることでしょう。

犯罪防止治療に再度物申す

小児性愛は依存症の一種。誰でもなりうる」…医師が語る加害者治療【こども・若者の性被害をなくそう】(日テレNEWS)

#Yahooニュース


 上記の記事が2023年8月1日付けでありました。この主張をまとめると、小児性愛については

①してはいけない事だと自覚させる。

②再発の危険は常にあるため、一生治療が必要。

③依存症の一つであり、誰でもなり得る。

という事です。

 

 ①は、認知行動療法がやはり中心となり、特に、子供への罪悪感を増すのが良いとのこと。

 

 記事文中にありますが、ここでは性嗜好障害として、窃視症や窃触症、下着泥棒などと小児性愛を同列に並べて見ています。

 

 どのように事例を抽象化してグループ分けするかということは、実は恣意的な話です。「性嗜好」とは好みの話です。同性愛者は、自分達はそこには当てはまらないと主張し、自分達は「性対象」が異性でないだけだと言います。確かに、下着などに固執することと、恋愛対象として同性しか求めないというのとは、生物というか生命活動的なレベルにおいて異なる気がします。下着など無くても本質的に困ったりしないでしょう。

 

 しかし、小児性愛は思春期から現れるものであり、「趣味」の問題では絶対になく、恋愛対象の話に異なりません。そうすると、同性愛と何が違うのかと問いたくなります。

 

 昨今では、同性愛は異常ではないという見解が普及してきているようですが、もしも生物に「異常」という状態をあらゆるレベルで認めないと考える時にのみ、その見解は成立するでしょう。つまり、奇形や先天的な疾患も、進化の過程で現れる突然変異の一つの形態だと捉えるという事です。

 

 ここまで抽象化すると、治療という概念は、何かを他の形に変えることとなり、字面とまるで変わった意味になります。

 

 正常という観念が、本当にマジョリティーのことだけを表すものなのかは考える必要があると思います。

 

 但し、それを特定することは学問的に困難であるため、一般的な基礎医学では統計から基準値を出し、精神医学では「困り感の有無」を基準としています。

 

 他方、③では、依存症の括りに小児性愛を含めています。しかし、本当に、例えばパチンコ依存やアルコール依存のように、誰でも小児性愛になるのでしょうか。セックス依存症というのは存在しますが、それは、自分の抱える苦しみを忘れさせてくれるような悦びがセックスによって得られるからです。子供の性器や裸に最初からそのような悦びを感じないのであれば、誰が依存症としての小児性愛に至ることでしょうか。私は以前、小児性愛に対して子供依存症という言葉を使いましたが、結果としての依存症なのであって、そもそも初めにあるのは子供を求める気持ちです。

 

 要するに、小児性愛には、性嗜好障害と同列の部分も、依存症と同列の部分もありながら、独特なものであるということです。

 

 ①は特定の思想に順応させる行為のように思えますし、②も、他者から与えられるとすれば非常に酷だと言わざるを得ません。

「犯罪を起こさせない治療」は治療ならず

 古いものですが、『日刊 SPA!』2018年6月6日のネット記事に

「『小児性愛は治せる』と医師が断言。犯罪を起こさせない治療法とは」

というのがありました。

 


https://nikkan-spa.jp/1481527

 


 これは、タイトルの通り、いかに犯罪を起こさせないのかという話です。この医師は、加害者がいなければ被害者もいないという考えだそうです。

 

 結局、犯罪の火種となる小児性愛をいかに断つかという視点なのであり、人間全体としてその人を見ていないことだろうと想像されます。

 

 「小児性愛障害」ですから、性愛に関わる部分の抑えが効かず苦しむのがペドフィリアではありますが、求めるのはそれだけではなく、愛着の面で偏った心理的欠乏感を何とかしたいという差し迫った欲求に駆られます。それを、成熟した大人にではなく、子供に求めてやまない点が特徴です。

 

 しかし、全てを一緒にして子供に救いを求めるのでなく、個別の要素ごとに求める対象を変えてみる事は不可能なのでしょうか。

 

 例えば、愛着の部分はカウンセリングに、そして性愛の部分は性風俗産業に任せるというようにです。そして、身体的な子供の造形美は、アニメやフィギュア、またラブドールで追究するのです。

 

 二つ目の性愛に関しては、セックスできれば良いというわけにはいかないでしょうから、できる限り若くて容姿の優れた相手を見つける作業が伴います。二十代前半であれば、おかしな表現ですが、子供の面影があるので、性的に興奮することも可能でしょうし、体を重ねてしまえば慣れも生じて、いずれは恋愛対象としてその年齢が入ってくるかも知れません。

 

 世間にはさまざまな性風俗店があるのですから、それを利用しない手は無いというものです。但し、そもそも愛着の問題を抱えるペドフィリアは、依存症にもなりやすいため、昨今話題になった、ホスト通いによる若い女性の支払い不能問題のように、他の問題を併発する危険はあります。

 

 ホストにのめり込む女性は、そこに愛着の問題を持ち込み、解決の糸口にしようとしている訳ですが、体と心を分けずにいるなら、その対象が間違っている気がします。

 

 ともあれ、「犯罪を防ぐために治療」という態度は、社会制度に適合させるための矯正であって、治療とはニュアンスが大いに異なるものだと言わなければなりません。

誰かのためなら頑張れる、かも知れない

 

 木山啓子『誰かのためなら人は頑張れる』(かんき出版2010年)に以下のような話がありました。

 

 2004年、インドネシアスマトラ島沖地震と呼ばれる大地震が起こりました。規模はマグニチュード9.3、死者は22万人と言われています。大津波も起こって、周辺の国々に被害が及びました。

 

 スリランカも被害を受け、ある男性は家族を全員失いました。当時まだイラク戦争で危険だったイラクに男性は出稼ぎをしていたので、家族は男性のことを心配しながらその帰国を待っていたそうです。それが、男性が帰ってみたら家族はみな亡くなっており、絶望した男性はアルコールに溺れる生活をするようになったそうです。被災地に来た筆者の国際的自立支援団体であるJENにもどうにもできなかったことが書かれています。

 

 その男性を変えた出来事がありました。それは、男性と同じく家族を失って生き残った男の子に出会ったことでした。この子を何とかしなくてはと思った男性は、男の子を引き取り、共に暮らすうちにJENにも協力するようになり、プロジェクトチームのリーダーになったそうです。

 

 何かへの依存症というものは、現代では脳の病気だとされています。現実があまりに辛い場合には、そこから少しでも楽になる為に、人は依存症になりやすくなります。一度なってしまうと、自分から努力して改善することは容易ではありません。

 

 辛いことや嫌なことから離れたいと思う人はみな依存症になり得ます。つまり、誰でもなるということです。

 

 自分のためには何もできない絶望的な状況でも、誰かのためなら人は頑張ることができ、自分も変わってしまうという不思議が人間にはあるようです。

 

 自己実現というのは、自分のオリジナルを探すことではなく、人や何かの役に立つようになれることなのかも知れません。

 

 精神的なさまざまな問題も、そこにフォーカスし続けるより、外の世界に興味を持って目を向ける方が変化が早いのかも知れません。

 

 ペドフィリアにも果たして同じことが言えるでしょうか。

 

 これまで度々取り上げてきた、教育関係に進むという方法は、対象そのものである少年少女に目を向け、それに仕えることでペドフィリアを昇華しようという案でした。これには相当な覚悟と善意を必要とし、それなくしては却って犯罪を犯しかねないポジションに身を置くことです。

 

 しかし、少年少女でない誰かの役に、全体ペドフィリアの人間が立ちたがるのかという問題もあります。小児性愛者は自分と他者に対して絶望しています。

 

 ただ、何らかの作業に没頭し、それが間接的に他人の役に立ち、感謝の反応を受け取ったとしたら、やり甲斐が生まれるには違いありません。

 

 ペドフィリアを振り返る余裕のないほど熱中できる行いを持ち、その技術を磨くことに没頭した結果、誰かの役にも立っている。そのような生き方ができると、何か変わるかも知れません。