飼い猫の中には極めて馴れっこいのがいて、顔を見れば寄ってくるばかりでなく、体をくっ付け離れようとしない者もいます。それは、あたかも相手と一体になりたいと体全体で表しているかのようです。好意の塊になっています。
そもそも、好感というものは、その対象に自分を没入させてしまうものです。対して、反感は自他をくっきりと分けて意識させます。
男性のペドフィリアは女の子になりたいのだという誰かの主張を読んだことがありますが、こと好感に関して言うならそれは間違いとは言えないでしょう。ただ、女装や変身ではなく、没我的に自分を相手に投入してしまうという意味なのですが。
もしも子供に近づくことができたとしたら、実際には没我的に相手に溶け込むことなどできないのですから、相手を自分の自我の支配下に置くか、極端な場合には相手を殺し、あまつさえ食べてしまうことにもなるでしょう。没我という点では同一ながら、この反対の極となる、子供の奴隷になるような関係は、空想上にはよくある事ですが、非現実的というものです。
ここにいう意味での「反感」を育てることは、子供へのいわゆる性的虐待を防ぐ方法となり得るものです。認知行動療法も、自分の思考や行動を分析・検討する点で、反感に働きかけています。
仏教の経典には、女性の体や性格に関し、ほとんど悪口と言えるような描写のあるものがあります。これは、読者に男性比丘を仮定しているからであり、性欲から遠ざかるためのものです。
ペドフィリアも一度、子供の良くない点やつまらない点に集中して目を向けてみてはどうでしょうか。世間では子供をあたかも善そのもののように捉える風潮さえありますが、果たして子供はそんなに良いものなのでしょうか。そして、子供の体や性器などもそんなに良いものなのでしょうか。