前回、「子供とペットとを同レベルの認識で捉えているペドフィリアは、最も直接的に子供に性加害しやすい」と書きました。
そして、実際には、ペットを意識せずとも、内心そのように子供に対してイメージしているペドフィリアが一番多いのかも知れません。
「幼くて可愛い子供目当てに性加害する」という、男性ペドフィリアについてのイメージは一般的なものです。それと、ここで言ってきたことで違うのは、ロリコンが子供を相手にする理由が「大人の女性には相手にされないから」ではないということです。
大人の女性が男性のロリコンの相手にならないのは事実として、その意味が全く異なります。対象として、大きな乳房や発達した骨盤、また、大人の女らしい振る舞いや雰囲気にペドフィリアは魅力を感じないのです。むしろ、圧迫感を覚えます。
それは、自己像が「傷ついた子供」だと言われるペドフィリアに、人生という過剰な重荷を感じさせるからかも知れません。
さて、子供をペットと同じように感じている事にはいくつか問題があります。倫理的な点ではなく、その認識から展開する結果についての話です。
それは、子供が人間である限り、こちらの思い通りにはならず、更には信頼も裏切られかねないということです。
大人同士の恋愛に鑑みれば明らかなように、人は好き嫌いを繰り返し、付き合ってセックスを重ねた挙句に喧嘩別れしたりします。
ペットと人間はそういう関係ではありませんし、動物が人に寄せるほどの信頼感を、自立した人間に果たして求められるものかどうか怪しいところです。
人間は、自分を信頼してくれるペットに依存している場合があります。ロビンソン=クルーソーにもし犬がいなかったら生きてはいけなかっただろうという文章がどこかにありました。
ペットセラピーや、老人施設への犬猫の訪問に効果があるのも、ペットに信頼されて、人間のほうでは保護者のようにペットを可愛がることで、自分の存在意義を感じ直すことができるからです。
子供にそのようなことを求めても上手くは行きません。簡単に人を信頼してくれるものでもありませんし、まして、性的な関係を子供に求めるならば尚更です。
ところが、完全にセックス抜きで異性と懇意になろうとする人間がいるとは想像し難いことであるように、それと同じくらい、性行為なしで子供を求めるペドフィリアは考え難いものなのです。
いずれにせよ、依存するほど信頼を置きたい相手から拒絶されたら、裏切られたという逆恨みが起こることでしょう。それがまた暴力的な犯罪行為を生む原因になります。
そういう依存体質のまま、子供を求めるのは不毛なのではないでしょうか。
やはり、ペドフィリアには自分を変えようとする意識が必要です。
子供が可愛いと思うことは、悪い事であるどころか、自分を成長させる種です。それがある事は、大きな宝だと思ったほうが良いでしょう。
スズメバチを怖がる人と、スズメバチが好きな人とでは、家に巣を作られた際、前者は慌てふためき、後者は喜ぶ事になります。全く違う世界の見え方です。そして、後者の方が明らかに人生を豊かに平和にします。
曹洞宗の僧侶である南直哉氏は、他者に対して敬愛する気持ちが大切だが、愛のほうはなくても良いと、禅の立場から、執着を起こさせるものとして愛に距離を置く心の持ち方を良しとしています。
ただ、修行者でない人間には、敬愛で充分かと思います。
ペドフィリアには、「可愛い」感覚から一歩進んで、子供に「敬」の気持ちを持てるよう、努めることが、より深い不幸に陥らず、発展的な関係を子供と築くためにも、必要なのではないでしょうか。