小児性愛者(ロリコン、ペドフィリア)のために考える

小児性愛者(ロリコン、ペドフィリア)のためになることを考えていきます

ヴィーガン、サイコパス、ペドフィリア

 日本でヴィーガンと聞くと、面倒でわがままな連中だというイメージが少なからずあるようです。SNSでは、ヴィーガンの主張に対して行われる猛烈な反論や暴言に、枚挙にいとまがありません。

 

 ヴィーガンが何のためにヴィーガンをしているのかを振り返れば、アレルギー等の身体的な理由のある人を除けば、基本的には宮澤賢治の『ビジテリアン大祭』に主張されている事と同一ですし、ヴィーガンへの反論もそこに出し尽くされている感があります。

 

 要は、できる限り殺生をせずに生きたいという思いです。無論ここにも、最新の知見からして、ウイルスは生物なのかとか、どこまでが自分としての肉体なのかなど、命題自体が曖昧になる課題が孕まれています。

 

 ただし、ウイルスや腸内細菌等、ナイーブな感覚には把握できないものを考察対象に取り込むことは行き過ぎではないかと私は感じています。

 

 さて、人が何に対して「憐れみ」を感じるのかには個人差が大いにあります。ミジンコから魚、昆虫、カエルやトカゲ、ネズミ、猫、馬、猿、などさまざまな生き物の写真を並べてみて、どれなら自分の手で殺せるかを尋ねてみればよく分かります。ここに植物を入れても構いません。

 

 下等動物から高等動物までを仏教では「有情」または「衆生」と呼んでいました。ヴィーガンはこれを殺すことに痛みを覚える訳です。ご存じかもしれませんが、植物にもその感覚が広がった「フルータリアン」も存在します。インドのジャイナ教徒は、ヴィーガンとフルータリアンとの中間あたりに位置します。

 

 魚は平気で殺せるという人は沢山いるでしょうが、猫になると減ってくるでしょう。犬の殺処分は許せないけれど、蜂の駆除は推奨するという人もいます。

 

 ヴィーガン側の極に何が位置するのか特定することは困難ですが、反対の極は簡単で、それはいわゆるサイコパスです。

 

 同情心や憐れみの心をどこまで広げるべきなのかという問いに果たして倫理的な尺度が有るものかどうか知りません。しかし、ここまでで憐れみはストップしろと、何かの基準を持ち出して強制することは、人間の発達もしくは人類の発展を考えると、いかにも不条理である気がしてしまいます。

 

 アイヌの有名なイヨマンテについて、可愛がっていた熊を悲しみながら殺す点が重要なのだというアイヌの言葉を読んだことがあります。学校教育でも、同様の考え方をしているのか、育てた鶏や豚などを殺して食べる授業を取り入れている所があります。イヨマンテも、これはその語った人の解釈なのかもしれませんが、学校教育のほうは、そこから何を子供に学ばせたいのか、子供の心にどんな良い影響があるのか、知りたいものです。

 

 乱暴な嫌いがあると知りつつこれをペドフィリアに敷衍して言うならば、肉を食べたら美味しいと感じるけれど、殺してまで食べる気はないという状態と、子供と性愛関係を持ちたいのは山々だが、悲しませてまでやりたいとは思わない、という状態は相似したものではないでしょうか。

 

 子供に性的な視点を向けるのは暴力だと叫ぶ人がいても、あたかもヴィーガンに反対する人の言葉同様、ペドフィリアにとって「美味いものは美味い」のです。

 

 鯨を獲るのは可哀想だ、犬を食べるのは可哀想だ、猫の殺処分は可哀想だ、子供への性暴力は可哀想だなどとピンポイントに慈悲を煽っても上手くいかないと思いませんか。

 

 慈悲心をどこまで拡張できるかということは、道徳心の向上そのものです。ペドフィリアに限らず、全人類の課題でもあるでしょう。

 

 肉を摂らないこと自体が情動の鎮静につながるとインドの宗教で言うように、ペドフィリアは行為としてのヴィーガンから始めてみてはどうでしょうか。