子供と愛玩動物いわゆるペットとを同一に論ずるのは、何か子供に対してその尊厳を犯しているような感じがするでしょう。
しかし、ペドフィリアにとって、子供とペットには通じるものがあります。
まず、見た目の良い子供の画像などをたくさん蒐集することが、昆虫採集や切手収集に似ています。これは、ペットどころか、子供を「もの」として捉えているとも言えます。美しい物、綺麗な物を手元に集めて保管しておきたいという衝動です。本物が手に入らないから画像や動画をいよいよ集める訳ですが、本物一人と関わりが持てたとしても、子供の姿を漁る衝動は治らないかも知れません。
子供の姿の中に、理想的な美を感じているからであり、更には自分に対する理想的な心のありようをも、人間として、子供に投影しているからです。言わば、神の映し絵として個々の子供の姿があります。
ペドフィリアにとって、子供はイコンのような存在だとも言えるでしょう。
実物を離れて「二次元」のほうに気持ちが向いてしまえば、もう完全なイコンです。
一方、ペットは種類を問わず動物です。神の映し絵としてペットを飼う人はいないでしょう。ペットは、程度にもよりますが、可愛いものです。
姿が可愛らしいと言うのは、そう感じている側に何らかの意志を生じさせます。何か良いことを相手にしてやりたい気持ちを起こさせます。
同時に、大抵の場合、相手から何かしてもらいたいという受け身の期待も生じます。具体的には、相手からの信頼や愛情・理解に対する期待です。
思春期の反抗期に入った青少年が、誰も自分を分かってくれないけれど、犬だけは違う、などと言うことがあります。
理屈で人を批判しない動物の共感力あってこそのことですが、そういう信頼を人はペットと共有できます。だからこそ、ペットが死んでしまった時、「ペットロス」という、病むほどの喪失感に襲われるのです。
話を子供に戻すと、子供の中に神の映し絵を見ている時、その美は崇敬の対象です。けれども、子供を単に「可愛い」という感情で見る場合、子供はペットとほぼ変わりのない存在になります。
異なるのは、子供が動物でなく人間であること、つまり、性の対象にも容易になり得る点です。理想的な心のありようの中に、性をも含めて投影しやすい点です。
人は普通、動物を自分より低い存在だと捉えますが、子供をもそのように捉えることができます。
神の映し絵を子供に見るのでなく、かつ、二次元にも突き抜けていかない場合、すなわち子供とペットとを同レベルの認識で捉えているペドフィリアは、最も直接的に子供に性加害しやすいと言えそうです。