ペドフィリアの権利が社会的に認められることは今後もないでしょう。それは、一方向的な志向だからであり、対象である子供からこちらが求められることがないからです。
だから、流行りのLGBTのように、社会運動を起こそうとしても無駄です。自分たちも性的なマイノリティーであると主張すること自体は正しくとも、空回りするばかりでなく、性犯罪者の予備軍だと予め目を付けられる危険すらあります。
ならば、そういう無駄な力を使うことはきっぱりやめて、仲間なども作らず、孤独に生きる決意をする方が生産的でありましょう。
それでも、誰かがネットに子供の画像や動画をアップするのをひたすら待ち続けたり、或いはそういうものを探してネットサーフィンをしたりするのでは、受け身なばかりか、他者の活動や、時には犯罪に依存しているだけです。
では画像や動画を作る側になるのかと言うと、プロになる以外は、盗撮まがいの方法しか無さそうであり、結局、子供の影を追うだけで、いつまでも満足は行かないことでしょう。
小児性愛者にとって大切なことは、子供と性的な行為をすることより、子供に愛してもらうことではないでしょうか。有り体のことを言えば、愛のないセックスを幾らしても満たされることはないけれど、愛があればセックスしなくても心が満たされるかもしれないということです。
そのためには、子供と直接関わる必要があります。その機会を求める努力が必要です。
実は小児性愛者は、そういう努力を惜しまない傾向にあると言えるでしょう。ナボコフの『ロリータ』の主人公は、ロリータに接近するために、その母親と結婚しました。最近あった静岡の事件では、犯人は性犯罪をするために、教員資格まで取得していました。
問題は方向性です。セックスにばかり気が向いてしまって、愛されることがいつのまにか二の次になっているのです。
ここに至って、話は普通の恋愛と変わらないものになったようです。好きな相手と付き合うためにはどうするかということです。
相手を愛するしかありません。身なりを整え、自分の下品さに敏感になり、相手を尊重する態度を習慣としなければなりません。
まずは、愛する具体的な対象を見つけ、コンタクトの取れる状況になるよう、努力すべきです。
次に、どのような形で自分が相手を愛せるのか、助けになれるのか、それを探します。相手に仕えるほどの尊重の気持ちを持ち、自分の下品な下心を点検しないと危険です。
その子のナイトのようになれたなら、画像を追いかける日々に比べ、自尊心も満足感も得られるに違いありません。
いずれにせよ、ペドフィリアは茨の道です。孤独にそこを歩いていくしかないのだとしたら、堂々とそうしましょう。