小児性愛者(ロリコン、ペドフィリア)のために考える

小児性愛者(ロリコン、ペドフィリア)のためになることを考えていきます

離人症とペドフィリア

 ドストエフスキーの『死の家の記録』の中にこんな下りがありました。囚人たちは、何十年という懲役の終わることを待ち望み、終わったら何をしようかと考えている。まるで、懲役が終わったら、監獄に入る前の年齢に帰るかのように、自分の年齢など省みず、あれやこれやができるものと信じている。

 

 大体、そんな文章でした。

 

 また、ルイス=キャロルが年老いた時に、少女に近づいてももはや周りの人が心配する事がなくなったと嘆いた、という話を私は読んだ事がありました。

 

 ペドフィリアも、人生を一種の監獄生活のように感じてはいないでしょうか。生活者としての自分、歳を重ねていく自分、変化していく時代、などは全て監獄生活であり、もしくは幻想であって、いつかは少年もしくは少女としての「本当の人生」に帰る時が来ると、感じてはいないでしょうか。

 

 少なくとも、内心の自己像は、子供のまま止まっている事でしょう。ピーターパン=シンドロームとは正にこのことです。幼稚だとか子供っぽいとか、甘えているなどと言われる成人が、厳しい社会で揉まれて苦労することで「大人」になる、そんなレベルの話とは異なります。ペドフィリアというピーターパンは、「厳しい大人社会」を監獄生活として、やり過ごすだけです。やり過ごせなければ、精神疾患に陥ったり、自殺したりするでしょう。

 

 離人症という疾患があります。自分が世界や身体から切り離されたように感じたり、外から自分を眺めているような感覚が続くというものです。小児性愛者にも共通する部分がありそうです。

 

 離人症には、やはり認知行動療法薬物療法などで対処するそうですが、効果のほどは確実とは言えないようです。また、原因には、ストレスや幼児期の被虐待体験が挙げられるそうです。

 

 離人症の人は、その症状自体が苦痛なのですが、ペドフィリアの場合は異なります。人生や自己の身体・感情との乖離感は、副次的なものだからです。

 興味深いことは、いずれも、自己意識がその他の要素と分けられてあることです。

 

 ちなみに、脳科学関係の言説で、私が奇妙だと常々感じているところは、自己意識と脳の仕組みとを完全に分けて、脳を鍛えるとか、脳に騙される、などの表現がされることです。自己意識も脳の機能の一部である筈なのに、何か脳が別物として対象化されているのはおかしな話ではないでしょうか。そこには、肉体と精神を分けて考える思想が厳然として表れています。

 

 荘子の有名な「胡蝶の夢」の話は、自己像が変化しても自己意識は変わらない、というようにも読めます。

 

 ペドフィリアの場合、自己イメージが離人感をもたらしている訳ですが、更に徹底して、それをも幻想だとする認識に至るなら、先へ進めるのかもしれません。言わば、離人症小児性愛者の先を行っている訳です。

 

 しかし、離人症からも先へ進む何かがなくては、結局、人生は意義深いものにならないでしょう。