小児性愛者(ロリコン、ペドフィリア)のために考える

小児性愛者(ロリコン、ペドフィリア)のためになることを考えていきます

子供の体は絶対的な美

 子供は「かわいい」ものと相場が決まっているのか、ロリコンが子供に対して抱く感情も、他者から専らそのように表現されます。しかし、一般的に子供がかわいいと感じられる可愛らしさと、ロリコンが子供に感じる魅力とは、必ずしも一致するものではありません。

 

 斎藤環氏に『戦闘美少女の精神分析』(筑摩書房、2006年)という著作があります。これは特にペドフィリアを中心として論じたものではないのですが、小学校高学年ごろの年齢層を対象とするペドフィリアなら、「戦闘美少女」に惹かれることは充分に考えられます。思春期の始まる頃の児童は、体型も体力も男女差に大きな違いが大人ほどはありません。その様態から展開する想像には、広がりと方向性に限りがないほどです。つまり、小児性愛者は、子供のあの姿を基準としながら、そこにあらゆる欲望や願望を投影していく訳です。子供の肉体のみを共通点として、精神疾患に安らぎを与えてくれそうな性質と属性とが、精神疾患のタイプに応じて付与されるのです。

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 例え、そのように加工された子供の姿をもまだ「かわいい」と表現できるとしても、その他の部分は全く異なる表現がなされなければならないものに変質しています。

 

 小児性愛者にとって、子供の姿こそが何よりの魅力のポイントであるようです。それは絶対的な価値を持つものにすら見えます。それを表現するには、言葉として、「かわいらしさ」よりは「美」「美しさ」がふさわしいと言うべきです。小児性愛者しか分からない何らかの美を小児性愛者は認識しているもののようです。

 

 何度か書いた通り、小児性愛者の自己像が「傷ついた子供」であるとすると、これは不思議なことに思えます。

 

 傷ついた子供が癒やされるために必要なことは何なのかと問わねばなりません。包容力ある母親像を求めたり、心身で優しく労ってくれる豊満な体の美女をペドフィリアが求めるなら、理解しやすいでしょうが、それらの性質は、謂わば二次的に、対象の子供像に付加されるのです。

 

 自己像の反映として子供を求めるというのも違うでしょう。自己像が子供であるからと言って、大人の男性が自分を少女と見做して、更によそに少女を求めるというのには無理があります。男女を入れ替えても同じことです。

 

 子供の姿とは一体何なのでしょうか。