小児性愛者(ロリコン、ペドフィリア)のために考える

小児性愛者(ロリコン、ペドフィリア)のためになることを考えていきます

困難さの再確認

 積極的な思考を持つことはペドフィリアにとっては困難なことかもしれません。自分自身に絶望していることが想像できるからです。

 

 ペドフィリアという特性が、抜けない棘のように刺さったまま、常に心に痛みを感じているような人生です。ペドフィリアとしての自分に、腹を据えて誇りが持てれば少しはマシになるでしょうが、そして、そうなれる考え方を私はここで提案してきたつもりですが、ペドフィリアとして粘り強く善に向かう生き方は簡単ではありませんし、何かの機会に子供に嫌われるそぶりでも見せられたりすれば、意気込みなど根底から崩れ去るほどの脆さが小児性愛者にはあるものです。裏を返せば、小児性愛というものに、自己の存在の基盤がそれだけ置かれている訳です。

 

 世間では、「小児性愛者かどうか判明するような検査を職場は採用時に課せ」「前科のある小児性愛者にはGPSを付けろ」「責任判断能力があるのだから、重罪を」などと簡単に言われますが、小児性愛者も社会の一員であり、何より悩んでいるのは彼らなのです。

 

 これは悪いことだからやめよう、などという思考でどうにかできるようなものではありません。

 

 世間でのそういう環境下にありながら、粘り強く善に向かって行こうとするペドフィリアもいるはずです。

 

 そして、そんな「意気込み」が無かったなら、小児性愛者が厭世観に陥ることは、いかにも簡単かつ当然であると言わなければならないでしょう。恋心を常に抱いていながら、振られ続けているような人生なのです。

 

 厭世観に陥ると、何に対しても積極的な気持ちを持つことができなくなります。常に鬱の数歩手前に立っている状態です。

 

 性格的に、行動的で自尊心の強い小児性愛者がいたとしたら、そういう人は開き直って積極的に悪に走るかも知れません。そもそも、最初から破滅しているのだから、いくらやってもおんなじだという訳です。

 

 社会人として人並みの地位を得つつ、隠れてちびりちびりと子供の裸などを蒐集していても、所詮、報われることもなく、しかも危険は常に付き纏っているのですから、いっそやりたい事をやれるだけやってしまおうという気持ちになる事も、人間として分からなくはありません。

 

 無論、必ず破滅が待っていることを覚悟しなくてはならないのですが。

 

 ペドフィリアについて思考を巡らせれば巡らせるほど、親鸞の言う「煩悩熾盛罪悪深重の衆生」を、深く感じざるを得ません。

 

 それでも、やはりそこから始めるしかないのです。