小児性愛者(ロリコン、ペドフィリア)のために考える

小児性愛者(ロリコン、ペドフィリア)のためになることを考えていきます

教員による性加害

 このところ、立て続けに教員の性加害が報道されています。ついでに熊による被害のニュースもやたらと目立ちます。これは、普段からあったものを集中的に取り上げることで、増えているから問題だという意識を人々に植え付ける効果が狙われているのかもしれません。そのように穿ってみる見方も現代では必要不可欠に思われます。

 

 教員による性加害については、例えば、Yahoo! JAPANには

https://news.yahoo.co.jp/articles/1237a0b9ad0976af4570a0dbf7179ce7c290498a

また

https://news.yahoo.co.jp/articles/585acda324c5666ef48fbcbb5f13b021256a4e3a

がごく最近の記事としてありました。

 

 最初のものは随分と記述が詳しく、内容的に「加害者の認知の歪み」を強調しているようにも感じられます。発信は「弁護士ドットコム」です。

 

 二つ目のものも、加害者とのやり取りの記述には同様の意図が窺われます。こちらは「FRYDAY DIGITAL 」です。

 

 それはともかく、教員による性加害はやはり多いのでしょう。

 

 「東京新聞TOKYO Web」によると、2022年に懲戒免職となった教員の事例が都内で6件、相談は88件に上ったということです。

教職員の性暴力 22年度相談88件、懲戒処分6件 都教委、対策強化へ:東京新聞TOKYO Web

 


 この数には小学校から高校までが含まれるので、教員の問題としてはまとめられますが、ペドフィリアの問題とは限りません。念のために述べるなら、先に挙げた二例は、都内ではありませんが、相手は小学生でした。

 

 この場では、どうしたら子供が被害に遭わないように事件の発生を防止できるのか、はたまた、教員の質に関する判断と対策について、といった視点は取らずに考えていきます。そして、現行の法律上はどうであろうと、16歳以上の性的に成熟した生徒を相手とする高校の教員は別な範疇と考えて、ペドフィリアである教員に話を絞ります。

 

 なお、改めてことを捉え直すならば、性的な対象となる年齢の相手に教員が手を出したという点では、小学生だろうと高校生だろうと似たような話です。違うとすれば、後者は相手も性的に成熟しているが故に、そちらからのアプローチがあっても不思議でないこと、そして、主体が前者では「小児性愛障害」と呼ばれる状態にあって、性的な欲望に駆られ続けていることでしょう。

 

 後者の場合は、文学のテーマとして扱われる事例が歴史的にも枚挙に暇がありません。謂わば「浮気」と同類の不道徳かつ誘惑的な、起こっても仕方のない人間的行為の一つだと目されてきた訳です。

 

 他方、前者には、文学に教師と児童という取り合わせはまず見られず、大人と子供のもっと広い取り合わせばかりです。文学的にも不道徳を超えて反社会的でさえあるテーマとして扱われ、結末は不幸になるものと相場が決まっていました。これを美化して呼ぶとすれば、「悪徳」にでもなるのでしょうが、そういう作品にはお目に掛かりません。

 

 少なくとも近代以降、ペドフィリアは社会的な悪だと見做されてきたようです。

 

 さて、なぜ教員にペドフィリアがいるのでしょうか。これは、過去のブログ記事にも書きました。子供が現代では学校空間もしくは塾などの教育的施設に集まっており、そこに行かなくては子供に近づけず、そこへ行けば知り合うことさえ可能だからです。そして、強制的にでも複数の子供を相手に関われるのは教員やコーチのような立場しかありません。ペドフィリアは、自分の心の苦しみを寛解させるためには子供の存在が必須だと信じています。だとすれば、子供の近くにいられる職場を選ぶのは当然だと言えますし、彼らが生きていくのには実際に必要なことなのかもしれません。しかし、性愛が大きなポイントである分、犯罪にも陥りやすいところが問題であるわけです。中には、犯罪などに走ることなく退職まで勤めた人も沢山いるでしょうし、ペドフィリア寛解した人もいるかもしれません。

 

 ペドフィリアの背景には、愛着の問題が必ずあるように思われます。母親や父親からは得られなかった人間関係の安心感を、子供の性質から取り返そうとしているかのように見えます。大人といる時には外せない鎧や仮面を子供の前でなら外せる、または、外しても安心できると信じているようです。

 

 しかし、教師など、完全に仮面を被るのでなければ成り立ち得ない立場でしょう。そして、子供に信頼される為にはその仮面は脱いではいけないのです。子供の成長のためにこそ教師がいるのですから、子供の信頼や尊敬を得て子供の善なる心が育つことに関係ないような、個人的な資質などを教師は子供の前で披露すべきではありません。その意味で、教師と子供との間には必ず距離がなければならないのです。

 

 立場上、子供に近づくことができ、子供に信頼されたと感じた時点で教師の取るべき距離を忘れてしまう。ここから不幸が始まります。

 

 思えば、ペドフィリアが教員になることには大変なジレンマがあるものです。量的には他者より子供に近づきながら、心理的な距離は他者より遠く保たなければならないのですから。

 

 しかし、ペドフィリアは子供を愛しており、繊細な感受性もある分、この位置関係を崩さずにいることができるなら、良い教員にもなれる可能性が大いにあります。

 

 それにしても、余程の善なる使命感を併せ持っていなくては、多かれ少なかれ、児童・生徒に手を出さずにはいられなくなる事は予想できます。或いは「裏の顔」を持ち続けて、性的な欲求を、子供を念じつつ自宅で吐き出す事でしょう。

 

 教員を目指す若い小児性愛者は後を絶たないに違いありません。果たして小児性愛者の愛着の問題は、教員になることで寛解するのでしょうか。そして、しないとすれば別の場で解決することはできるのでしょうか。