小児性愛者(ロリコン、ペドフィリア)のために考える

小児性愛者(ロリコン、ペドフィリア)のためになることを考えていきます

弱さを強さにできないか

 小児性愛者と聞くだけで、世の中には犯罪者だと思われる風潮があるのですから、小児性愛者は、他人から常に非難や差別をされる危険のある世間的な弱者だと言えます。

 

 実際の子供に何もしていなくても、存在しているだけで忌避されるのでは堪りません。けれどもそれが事実ですし、また、当の小児性愛者のほうでも、その状況に対して闘うよりは、隠れて平穏な日常を過ごすことを普通は望みます。

 

 いつ終わるかわからないテーマで延々と闘っているような体力も無ければ、何を勝ち取るのかもよく分からないし、リスクの方が大きいとしか思えないからです。小児性愛者が「勝ち取り」たいのは、子供との良好で性的な関係です。

 

 小児性愛者自身、自分の存在に絶望している事さえあります。

 

 さて、この「弱さ」を良いものにすることはできないでしょうか。

 

 強くなろうとして他者と比べ、頑張るのはこの場合、的を射ていません。既述の通り、強くはなれないからです。他の性的逸脱者と張り合うくらいはできるでしょうが、それもせいぜい文句を言うまでに留まり、自分への報いにはなりません。他者を妬んだり恨んだりし始めたら最早泥沼です。

 

 弱さを謙虚なままに認められないものでしょうか。

 

 愛というのは、対象の長所に目を向けて感嘆できる能力です。何らかの対象に愛情を持てないのは、その長所を実感できないからです。そして、長所に感嘆するとは、何事かを見上げ、敬うことでもあります。

 

 何かをこき下ろしている間、人間は何も学べないものですが、何かを見上げるならば、自身が変化していきます。

 

 弱さに留まって、他者の言行に謙虚に感嘆できたとしたら、人間関係も上手くいって、信頼される人間になれるかも知れません。

 

 思えば、キリスト教で聖人と言われた人たちは、自分に価値を置かず、また自分の興味から行動せず、神の喜ばれることを神の意志のままに行うという態度で生きていました。そして、傍目から見て、弱い聖人というものはいた試しがありません。

 

 自分は弱いと認め、その自分が行うのでないから、強いのです。

 

 しかし、そう思えるためには、従うに値する確固とした権威がなくてはなりません。

 

 それをどこに求めるかで、人生はまた大きな岐路に立たされます。

 

 全体主義的な危険思想とそれを信奉する団体に接近する危険がここにあります。そもそも、そのような団体に接近しようとする人は、どこか心の底で自信のなさを痛感しているのではないでしょうか。

 

 宗教団体が、現代では概ねそのようなものとして見られる傾向にあり、宗教を信仰する人も、自信のない、何かに縋りたい気持ちを持つ弱い人間だと目される傾向にあります。

 

 実は、テロリスト集団や右翼団体、左翼団体なども全く同じです。全体主義的な仲間が、構成員になるような人は欲しいのです。

 

 対して、小児性愛者に仲間はいません。孤独であることが運命のようなものです。孤独から解放されるのは、子供と恋愛関係になれた時だけです。

 

 最も良いのは、仕えるべき子供を見つけることです。但し、これはほとんど夢のような願いです。

 

 子供に仕えることを戯画化して、ジュニアアイドルの「追っかけ」をしても、多少は有意義な時間を過ごすことができるかも知れません。生産的なことには繋がらなくても、劣情を表に小出しにしつつ、アイドル讃美に昇華できます。この場合、アイドルを中心とした仲間もできるかも知れません。

 

 次には、集団を求めず、個として信仰を持つことです。インドでは、初老になると、家族や財産を捨てて放浪の遊行者になることが、今でも良い生き方だとされているそうです。積極的にこの世の享楽的生活を諦めて、神に向かうことに価値を置く。ヒンズー教などでは、神意識に至ると個別性が解消されて、至福意識の中に溶け込むと説きます。このような全体意識は周囲に個を合わせる全体主義とは違います。

 

 話が逸れるようですが、アニメの『エヴァンゲリオン』や、『マクロスΔ』では、個性を全体性に溶け込ませてしまおうとする意図と、それに対する抵抗が描かれていました。あくまでも「個」を重視しようとする現代人の方向性が表れていて興味深く思いました。

 

 全体主義を含む全体性から、個人主義・個別性へと人間は歴史的にあり方を変化してきました。

 

 帰るべき安らぐ場所も、帰属する何物も、自分に似た何者も存在しない独立した個としての孤独にどれほど耐えられるものか、想像し難いことですが、個性や自由の行き着く究極のところはそういう地点です。

 

 孤独を強いられている小児性愛者は、繰り返しになりますが、自由や個性を求めてそうなったのではありませんし、それを求めているのでもありません。むしろ子供と性的に溶けて混じり合ってしまいたいと思います。いなくなりたいという気分にこれは通じるものです。

 

 サディズムマゾヒズムの根は同じであり、それが「いなくなりたい」という自己否定の感覚である事はつとに指摘されています。サディスティックな小児性愛者やマゾヒスティックな小児性愛者はたくさんいる事でしょう。

 

 逸脱と破滅への道が幾つも途上にあるのがペドフィリアの人生です。それを安全に建て直す力も内在してはいないようです。

 

 弱さに徹して、孤独な個のまま信仰心に生きていくことが安泰であると思われます。

疲れた小児性愛者と依存症

 世の中にはさまざまな依存症があります。アルコール依存症、各種の麻薬依存症、ギャンブル依存症セックス依存症、テレビゲーム依存症などですが、これらは、最近では、特定の刺激によって脳に変化が起こることが原因であると考えられています。

 変化を起こすのは、例えばアルコール依存症なら、アルコールを摂取することから来る快感による常習です。

 しかし、何より重要なのは、現実逃避という目的です。現実世界に存在することの辛さを忘れさせてくれる快感を得ることが最重要なのです。アルコール依存症は、いずれ肉体的にも依存していくのですが、それ以前に精神的な依存があることは他と同じです。

 依存症は、当人が自立していない点で、つまり自律の利かない点で、当人の人生に不利益を与えていきます。それは経済面であったり、健康面であったりしますが、それらは絡み合っていきます。幸福に導かれることはありません。

 これまで、ペドフィリアのことを私は、子供依存症と名付けたり、セックス依存症愛着障害、また離人症に通ずると指摘したりしてきました。

 もっと大きな意味では、現実世界に対する適応障害であると言えるでしょう。そして、ペドフィリアを取り巻く現実世界は厳しいのです。

 そういう世界にあって、その現実を忘れて楽しむことができる機会や手段があるならば、それを選ばない手は無いのではないでしょうか。

 もしもそれを責めるような人間がいるならば、その人間が責めている相手の人生の責任を持ってほしいとさえ思えます。

 同じことは、依存症の人全般に言える事なのかもしれません。

 尤も、飲酒して周りに暴力を振るったり、幻覚を見て奇行に走ったりするようでは他人の迷惑です。

 テクノロジーが進歩して、バーチャルな世界のリアリティーをもっと体験することができるようになれば、ペドフィリアたちは引きこもり続け、植物状態に近い形で、言わばほぼ現実世界に個性を存在させないような形で暮らしていけるかもしれません。

 バーチャルリアリティーの中では、AIの作った理想的な子供と理想的な時間を過ごすのです。

 現実世界に帰る必要も要求もないのですから、そのまま衰えて死んでいきます。ちょうど、映画『マトリックス』の中の人間のようにです。

 それで良いのではないでしょうか。むしろ、小児性愛者にとっても社会にとっても、それが良いのではないかとすら思えないでしょうか。

 ただ、これは現在ではまだ、未来への可能性の話に過ぎません。

 実際のところ、世の中には、依存症に陥っていない小児性愛者が沢山いることと思われます。その状態を保つことがどれほど大変なことか、上記から想像するべきでしょう。

 努力している小児性愛者には次のように言いたいと思います。

 善き方へと努力しながら、自分を変えようとすることは疲れます。そういう「イケイケ」の人生を送ることに嫌気が差したら、堂々と引きこもって夢の世界に没頭する方が、自分を楽に大切にすることになるのではないでしょうか。せめて休日には努力をやめて、ペドフィリアの思いを空想上に解放させても良いのではないでしょうか。

倫理的マイノリティー

 同性愛者や性同一性障害者と小児性愛者は同列に並べられるかどうかという議論があります。性同一性障害性自認の問題なので、違う気がするのですが、同性愛と小児性愛は性対象の問題なので、同列に扱うべきだと思います。よくある反論の、小児性愛は性嗜好の話だから同性愛とは異なるというのは、事実を見ていません。

 

 扱う枠を「性的逸脱」とすると、ここにはサディズムマゾヒズムフェティシズム、死体愛など、対象が一気に広がります。

 

 盗癖や嘘をつく傾向、変わった人、困った人など、そして知的障害や反対のギフテッド、また後天的な、アルコール依存症ギャンブル依存症など、あらゆる形の人が世の中には存在しています。

 

 何が言いたいのかというと、括り方によって「お仲間」は変わるし、果たしてその括り方に意味があるのかどうなのかを一度は問う必要があるということです。

 

 マイノリティーなどと聞くと、何となく「気にかけるべき」「被害者的な」「本当は価値のある」存在であるかのようなニュアンスを現代では感じます。

 

 しかし、それも括り方によって中身が変わってくることは意識すべきです。

 

 「性的マイノリティー」など、実のところ、何やらよく分からない概念なのではないでしょうか。

 

 性的とあるならば、そこに小児性愛が入らないわけはありません。

 

 性的逸脱という言葉もありますが、これにも曖昧な点があります。対象について逸脱しているのか、そもそも性的な何かが「普通」でないのかでは、意味するところが異なってきます。

 

 後者の場合にのみ、性自認は性的逸脱に入るでしょう。自分の性別が分からなかったり気にならなかったり、対象の性別を問わないというのもここに入れられます。

 

 けれども、性同一性障害フェティシズムをまとめる事に何が意味があるでしょうか。

 

 同様に、同性愛者と性同一性障害者とを同列に並べる事にどんな根拠があるのでしょうか。

 

 更には、「性的」という括りにどれほどの価値があるのか、考えてみる必要があります。

 

 「性的」という部分を例えば「倫理的」に替えてみたとすると、人格障害と呼ばれる一群が入ってきます。人格障害もさまざまですから、「倫理的マイノリティー」などという概念を設けたところで、意味のあるものかどうか分かりません。

 

 倫理的マイノリティーには、ペドフィリアも入るかも知れません。そうすると、例えば反社会性人格障害小児性愛が同じグループになります。いわゆるサイコパスも同類でしょう。

 

 仮に、価値観が多様な現代では倫理的マイノリティーの存在も認めろという動きがあったとしたらどうでしょうか。

 

 人格障害者は人格障害者らしく生きる権利があるというものです。

 

 併せて、バリアフリーの考え方も適用されるべきでしょう。

 

 そのような社会が成り立つとは、ちょっと考えられません。

 

 そして、社会を成り立たせなくするような人格特性は、個人であっても個性であっても、社会に優先されることはないということです。

 

 要するに、人権というものも、その効力は程度問題です。それを決めるのは社会体制でしょう。

 

 勿論、社会体制も価値観も時代と共に変化していきます。

 

 同性愛者や性同一性障害者が権利を主張して憚らないのも、その特質が現代社会の価値観の範疇において、積極的な害を加えないという認識が、人々にあるからだと思われます。

 

 ペドフィリアは、子供に性的な加害を加えることが前提とされているため、現代社会で容認されないのです。性的マイノリティーである事には変わりありません。

 

 ところで、ペドフィリアという括りにも果たして意味はあるのかと問うてみなければなりません。

 

 同性愛者でペドフィリア人格障害者でペドフィリア性同一性障害者でペドフィリアという人もいるはずです。それどころか、性同一性障害と同性愛とペドフィリア人格障害を全て持っている人の存在も考えられます。

 

 こう見ると、ペドフィリアは現れる症状の一つに過ぎないように思われます。つまり、小児性愛ということを本質とするような特別な人類集団が存在する訳ではないと言えます。

 

 しかし、臨床的には、小児性愛者には共通してみられる特徴や自己像があるようです。

 

 それでは小児性愛は後天的なものであり、治癒が可能なのかと問えば、それは明らかではありません。むしろ見解は否定的でしょう。

 

 ならば、ペドフィリアを中心的アイデンティティーとする人が現れても不思議はありません。

 

 私はそのような人たちのために考えて行きたいと思っています。

困難さの再確認

 積極的な思考を持つことはペドフィリアにとっては困難なことかもしれません。自分自身に絶望していることが想像できるからです。

 

 ペドフィリアという特性が、抜けない棘のように刺さったまま、常に心に痛みを感じているような人生です。ペドフィリアとしての自分に、腹を据えて誇りが持てれば少しはマシになるでしょうが、そして、そうなれる考え方を私はここで提案してきたつもりですが、ペドフィリアとして粘り強く善に向かう生き方は簡単ではありませんし、何かの機会に子供に嫌われるそぶりでも見せられたりすれば、意気込みなど根底から崩れ去るほどの脆さが小児性愛者にはあるものです。裏を返せば、小児性愛というものに、自己の存在の基盤がそれだけ置かれている訳です。

 

 世間では、「小児性愛者かどうか判明するような検査を職場は採用時に課せ」「前科のある小児性愛者にはGPSを付けろ」「責任判断能力があるのだから、重罪を」などと簡単に言われますが、小児性愛者も社会の一員であり、何より悩んでいるのは彼らなのです。

 

 これは悪いことだからやめよう、などという思考でどうにかできるようなものではありません。

 

 世間でのそういう環境下にありながら、粘り強く善に向かって行こうとするペドフィリアもいるはずです。

 

 そして、そんな「意気込み」が無かったなら、小児性愛者が厭世観に陥ることは、いかにも簡単かつ当然であると言わなければならないでしょう。恋心を常に抱いていながら、振られ続けているような人生なのです。

 

 厭世観に陥ると、何に対しても積極的な気持ちを持つことができなくなります。常に鬱の数歩手前に立っている状態です。

 

 性格的に、行動的で自尊心の強い小児性愛者がいたとしたら、そういう人は開き直って積極的に悪に走るかも知れません。そもそも、最初から破滅しているのだから、いくらやってもおんなじだという訳です。

 

 社会人として人並みの地位を得つつ、隠れてちびりちびりと子供の裸などを蒐集していても、所詮、報われることもなく、しかも危険は常に付き纏っているのですから、いっそやりたい事をやれるだけやってしまおうという気持ちになる事も、人間として分からなくはありません。

 

 無論、必ず破滅が待っていることを覚悟しなくてはならないのですが。

 

 ペドフィリアについて思考を巡らせれば巡らせるほど、親鸞の言う「煩悩熾盛罪悪深重の衆生」を、深く感じざるを得ません。

 

 それでも、やはりそこから始めるしかないのです。

「ロリコンとうさん」上演迫る

 NICE STALKER主催の演劇「ロリコンとうさん」が、2023年8月30日から上演されます。場所は、@下北沢ザ・スズナリ。イトウシンタロウ氏の作です。

 

 上演前なのですが、この見どころは、制作過程でロリコンの人達を相手に、30人以上に対してインタビューを行っている点です。

 

 つまり、空想上のロリコンでも、犯罪者の情報を基にしたイメージでもない「なまの」ロリコンの声が反映されているのです。

 

 このようなものは、どこにも存在した試しがなかったでしょう。演劇としてではなく、全ての分野においてです。

 

 実に画期的な試みでもあり、普段は水面下に隠れざるを得ないロリコン達にとって、気持ちが代弁されるような、精神的なカタルシスや昇華が感じられるような作品であってほしいと切に願うところです。

 

 残念ながら、遠方に住む私は観劇に行けません。DVDなど、映像化されて誰でも見られるようになってほしいものです。

 

 詳細は以下をご覧ください。

 


http://nice-stalker.com/lolicom_tousan

ペットとしての子供2

 前回、「子供とペットとを同レベルの認識で捉えているペドフィリアは、最も直接的に子供に性加害しやすい」と書きました。

 

 そして、実際には、ペットを意識せずとも、内心そのように子供に対してイメージしているペドフィリアが一番多いのかも知れません。

 

 「幼くて可愛い子供目当てに性加害する」という、男性ペドフィリアについてのイメージは一般的なものです。それと、ここで言ってきたことで違うのは、ロリコンが子供を相手にする理由が「大人の女性には相手にされないから」ではないということです。

 

 大人の女性が男性のロリコンの相手にならないのは事実として、その意味が全く異なります。対象として、大きな乳房や発達した骨盤、また、大人の女らしい振る舞いや雰囲気にペドフィリアは魅力を感じないのです。むしろ、圧迫感を覚えます。

 

 それは、自己像が「傷ついた子供」だと言われるペドフィリアに、人生という過剰な重荷を感じさせるからかも知れません。

 

 さて、子供をペットと同じように感じている事にはいくつか問題があります。倫理的な点ではなく、その認識から展開する結果についての話です。

 

 それは、子供が人間である限り、こちらの思い通りにはならず、更には信頼も裏切られかねないということです。

 

 大人同士の恋愛に鑑みれば明らかなように、人は好き嫌いを繰り返し、付き合ってセックスを重ねた挙句に喧嘩別れしたりします。

 

 ペットと人間はそういう関係ではありませんし、動物が人に寄せるほどの信頼感を、自立した人間に果たして求められるものかどうか怪しいところです。

 

 人間は、自分を信頼してくれるペットに依存している場合があります。ロビンソン=クルーソーにもし犬がいなかったら生きてはいけなかっただろうという文章がどこかにありました。

 

 ペットセラピーや、老人施設への犬猫の訪問に効果があるのも、ペットに信頼されて、人間のほうでは保護者のようにペットを可愛がることで、自分の存在意義を感じ直すことができるからです。

 

 子供にそのようなことを求めても上手くは行きません。簡単に人を信頼してくれるものでもありませんし、まして、性的な関係を子供に求めるならば尚更です。

 

 ところが、完全にセックス抜きで異性と懇意になろうとする人間がいるとは想像し難いことであるように、それと同じくらい、性行為なしで子供を求めるペドフィリアは考え難いものなのです。

 

 いずれにせよ、依存するほど信頼を置きたい相手から拒絶されたら、裏切られたという逆恨みが起こることでしょう。それがまた暴力的な犯罪行為を生む原因になります。

 

 そういう依存体質のまま、子供を求めるのは不毛なのではないでしょうか。

 

 やはり、ペドフィリアには自分を変えようとする意識が必要です。

 

 子供が可愛いと思うことは、悪い事であるどころか、自分を成長させる種です。それがある事は、大きな宝だと思ったほうが良いでしょう。

 

 スズメバチを怖がる人と、スズメバチが好きな人とでは、家に巣を作られた際、前者は慌てふためき、後者は喜ぶ事になります。全く違う世界の見え方です。そして、後者の方が明らかに人生を豊かに平和にします。

 

 曹洞宗の僧侶である南直哉氏は、他者に対して敬愛する気持ちが大切だが、愛のほうはなくても良いと、禅の立場から、執着を起こさせるものとして愛に距離を置く心の持ち方を良しとしています。

 

 ただ、修行者でない人間には、敬愛で充分かと思います。

 

 ペドフィリアには、「可愛い」感覚から一歩進んで、子供に「敬」の気持ちを持てるよう、努めることが、より深い不幸に陥らず、発展的な関係を子供と築くためにも、必要なのではないでしょうか。

ペットとしての子供1

 子供と愛玩動物いわゆるペットとを同一に論ずるのは、何か子供に対してその尊厳を犯しているような感じがするでしょう。

 

 しかし、ペドフィリアにとって、子供とペットには通じるものがあります。

 

 まず、見た目の良い子供の画像などをたくさん蒐集することが、昆虫採集や切手収集に似ています。これは、ペットどころか、子供を「もの」として捉えているとも言えます。美しい物、綺麗な物を手元に集めて保管しておきたいという衝動です。本物が手に入らないから画像や動画をいよいよ集める訳ですが、本物一人と関わりが持てたとしても、子供の姿を漁る衝動は治らないかも知れません。

 

 子供の姿の中に、理想的な美を感じているからであり、更には自分に対する理想的な心のありようをも、人間として、子供に投影しているからです。言わば、神の映し絵として個々の子供の姿があります。

 

 ペドフィリアにとって、子供はイコンのような存在だとも言えるでしょう。

 

 実物を離れて「二次元」のほうに気持ちが向いてしまえば、もう完全なイコンです。

 

 一方、ペットは種類を問わず動物です。神の映し絵としてペットを飼う人はいないでしょう。ペットは、程度にもよりますが、可愛いものです。

 

 姿が可愛らしいと言うのは、そう感じている側に何らかの意志を生じさせます。何か良いことを相手にしてやりたい気持ちを起こさせます。

 

 同時に、大抵の場合、相手から何かしてもらいたいという受け身の期待も生じます。具体的には、相手からの信頼や愛情・理解に対する期待です。

 

 思春期の反抗期に入った青少年が、誰も自分を分かってくれないけれど、犬だけは違う、などと言うことがあります。

 

 理屈で人を批判しない動物の共感力あってこそのことですが、そういう信頼を人はペットと共有できます。だからこそ、ペットが死んでしまった時、「ペットロス」という、病むほどの喪失感に襲われるのです。

 

 話を子供に戻すと、子供の中に神の映し絵を見ている時、その美は崇敬の対象です。けれども、子供を単に「可愛い」という感情で見る場合、子供はペットとほぼ変わりのない存在になります。

 

 異なるのは、子供が動物でなく人間であること、つまり、性の対象にも容易になり得る点です。理想的な心のありようの中に、性をも含めて投影しやすい点です。

 

 人は普通、動物を自分より低い存在だと捉えますが、子供をもそのように捉えることができます。

 

 神の映し絵を子供に見るのでなく、かつ、二次元にも突き抜けていかない場合、すなわち子供とペットとを同レベルの認識で捉えているペドフィリアは、最も直接的に子供に性加害しやすいと言えそうです。