同性愛者や性同一性障害者と小児性愛者は同列に並べられるかどうかという議論があります。性同一性障害は性自認の問題なので、違う気がするのですが、同性愛と小児性愛は性対象の問題なので、同列に扱うべきだと思います。よくある反論の、小児性愛は性嗜好の話だから同性愛とは異なるというのは、事実を見ていません。
扱う枠を「性的逸脱」とすると、ここにはサディズムやマゾヒズム、フェティシズム、死体愛など、対象が一気に広がります。
盗癖や嘘をつく傾向、変わった人、困った人など、そして知的障害や反対のギフテッド、また後天的な、アルコール依存症やギャンブル依存症など、あらゆる形の人が世の中には存在しています。
何が言いたいのかというと、括り方によって「お仲間」は変わるし、果たしてその括り方に意味があるのかどうなのかを一度は問う必要があるということです。
マイノリティーなどと聞くと、何となく「気にかけるべき」「被害者的な」「本当は価値のある」存在であるかのようなニュアンスを現代では感じます。
しかし、それも括り方によって中身が変わってくることは意識すべきです。
「性的マイノリティー」など、実のところ、何やらよく分からない概念なのではないでしょうか。
性的とあるならば、そこに小児性愛が入らないわけはありません。
性的逸脱という言葉もありますが、これにも曖昧な点があります。対象について逸脱しているのか、そもそも性的な何かが「普通」でないのかでは、意味するところが異なってきます。
後者の場合にのみ、性自認は性的逸脱に入るでしょう。自分の性別が分からなかったり気にならなかったり、対象の性別を問わないというのもここに入れられます。
けれども、性同一性障害とフェティシズムをまとめる事に何が意味があるでしょうか。
同様に、同性愛者と性同一性障害者とを同列に並べる事にどんな根拠があるのでしょうか。
更には、「性的」という括りにどれほどの価値があるのか、考えてみる必要があります。
「性的」という部分を例えば「倫理的」に替えてみたとすると、人格障害と呼ばれる一群が入ってきます。人格障害もさまざまですから、「倫理的マイノリティー」などという概念を設けたところで、意味のあるものかどうか分かりません。
倫理的マイノリティーには、ペドフィリアも入るかも知れません。そうすると、例えば反社会性人格障害と小児性愛が同じグループになります。いわゆるサイコパスも同類でしょう。
仮に、価値観が多様な現代では倫理的マイノリティーの存在も認めろという動きがあったとしたらどうでしょうか。
人格障害者は人格障害者らしく生きる権利があるというものです。
併せて、バリアフリーの考え方も適用されるべきでしょう。
そのような社会が成り立つとは、ちょっと考えられません。
そして、社会を成り立たせなくするような人格特性は、個人であっても個性であっても、社会に優先されることはないということです。
要するに、人権というものも、その効力は程度問題です。それを決めるのは社会体制でしょう。
勿論、社会体制も価値観も時代と共に変化していきます。
同性愛者や性同一性障害者が権利を主張して憚らないのも、その特質が現代社会の価値観の範疇において、積極的な害を加えないという認識が、人々にあるからだと思われます。
ペドフィリアは、子供に性的な加害を加えることが前提とされているため、現代社会で容認されないのです。性的マイノリティーである事には変わりありません。
ところで、ペドフィリアという括りにも果たして意味はあるのかと問うてみなければなりません。
同性愛者でペドフィリア、人格障害者でペドフィリア、性同一性障害者でペドフィリアという人もいるはずです。それどころか、性同一性障害と同性愛とペドフィリアと人格障害を全て持っている人の存在も考えられます。
こう見ると、ペドフィリアは現れる症状の一つに過ぎないように思われます。つまり、小児性愛ということを本質とするような特別な人類集団が存在する訳ではないと言えます。
しかし、臨床的には、小児性愛者には共通してみられる特徴や自己像があるようです。
それでは小児性愛は後天的なものであり、治癒が可能なのかと問えば、それは明らかではありません。むしろ見解は否定的でしょう。
ならば、ペドフィリアを中心的アイデンティティーとする人が現れても不思議はありません。
私はそのような人たちのために考えて行きたいと思っています。