小児性愛者(ロリコン、ペドフィリア)のために考える

小児性愛者(ロリコン、ペドフィリア)のためになることを考えていきます

あらゆる診断基準は「困り感」

 現在、精神面で異常かどうかということは、本人または他者が、その人のその状態によって困っている、という点が基準なのだそうです。つまり、誰も困っていないのならば、異常ではないとする考え方です。これは、反対に「正常とは何か」がほとんど言葉で規定できないからでもあります。

 

 ちなみに同性愛は、精神障害の項目から現在は削除されていますが、同性愛の場合、生物としては正常とは考えられないのに、大人同士の関係で互いが満足であり、他者もそれで困らないのであれば問題ないと認識されるようになってきたからです。

 

 例えば、先の診断基準のうち、Bがなかった場合、つまり、誰も困らず、相手の子供もそれに満足しているとしたら、治療対象や精神障害としてのペドフィリアには当てはまらなくなってしまう筈です。それでも、社会的な風潮がそれを許さないだろうということが簡単に想像できます。


 ペドフィリアが何に困っているのかと言えば、少女との性的関係を含む恋愛が成り立たないこと、もしくは成り立ったとしても、それが社会的に受け入れられないことでしょう。もしもそれが成り立ち、社会的にも受け入れられたとしたら、苦悩は解消するのかもしれません。


 他者がペドフィリアの何に困るのかと言えば、これは明らかだと思いますが、親としてそのような大人との関係は認めたくないということでしょう。


 ペドフィリアを描いた小説や映画の結末はほぼ悲惨なものになります。それが社会の通念でもあり、ペドフィリア=犯罪者という感覚も、それを示しています。


 性同一性障害は、本人の困り感があるので、それを解消するために、精神を治療するのでなく、体を整形することが認められつつあります。


 しかし、ペドフィリアの場合、どうしたら困り感をなくすことができるのでしょうか。

 

 気が付いたら同性愛者だったという人と同じく、ペドフィリアも、気が付いたらそうだったという点で、どちらも運命的な、もしくは宿命的な性的傾向です。それでありながら、ペドフィリアは、その欲求を変えることも不可能ならば、満足させることもできないという状況に置かれたままです。

 

 このようなことを書くだけで、犯罪を正当化しているなどと興奮する人がいますが、そんな意図はなく、事実を書いているだけです。