小児性愛者(ロリコン、ペドフィリア)のために考える

小児性愛者(ロリコン、ペドフィリア)のためになることを考えていきます

小児性愛のままに留まりたい人はどうするか

 小児性愛を「治す」気がない人の場合のことを考えます。


 そもそも、最近では、性的対象が大人の異性であることを「正常」または「健常」と言わないことが良いような風潮が出来つつあるようです。LGBTに配慮しての事ですが、性というのはそんなに抽象的なものなのか、よく考えねばならないでしょう。


 ジェンダーとセックスという概念上の分類があり、セックスは物理的な性別、ジェンダーは文化的または社会的な性役割を表すものだと私などは習いました。これは今では変わっているのでしょうか。
 同性愛は、ジェンダーには関係のない概念であり得ます。肉体のみで、取り敢えずは、どういう存在かを同定できます。


 性別違和、性同一性障害の場合は複雑です。


 例えば、同性愛者で、女性のような服装や振る舞いをしたがる肉体的な男性がいて、その人は自分を男性だと思っているなら、これはジェンダーの話だと言えます。昔の「オカマ」と言われた人たちは、これに当たるでしょうか。「オネエ」と呼ばれる人も同様でしょうが、性同一性障害とどこまで違うのかは実は分かりません。


 性同一性障害の場合、肉体を離れて、自分の本質は異性だと感じる訳ですから、男女という実質的なもしくは形而上的な実在が仮定されており、これをジェンダーの問題だと言うことはできません。


 肉体以外は全てジェンダーだとするなら話は別ですが、文化や社会制度によって規定された行動様式と、まるでプラトンの言うイデアのように、形なき実存とを同じものとする事は、乱暴だと私には思われます。


 後者の場合は、肉体を性転換するほど強烈な違和感を伴うので、これを一つの精神障害と認める事は全うだと思います。


 それにしても、現代では、精神活動は脳という肉体によって作られるものだという認識であるにも関わらず、肉体を優先して精神的な認識を変えようとするのでなく、精神を優先して、肉体を変えてしまうことを良しとし始めた動きには、注目する必要があります。


 小児性愛の場合、自分の肉体を子供に変えるという選択肢はありません。諸星大二郎氏の漫画にはそういう世界を描いたものがありました。

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 ジェンダーやセックスに該当する概念から小児性愛を考えるなら、性交合意年齢の文化的な違いと、生物学的な成熟と言ったところでしょう。


 いわゆる先進国では、このどちらからも小児性愛が良しとされないために、小児性愛者は、精神を変えることを余儀なくされます。


 それが可能かどうかと言う点は、性同一性障害や同性愛者の場合と同じです。


 さて、ここで、もしも、小児性愛者として生きていく事をある人が決意したとしたらどうなるでしょうか。


 社会が子供を守るという動きを変えることは不可能です。平気で子供とセックスできる平和な世の中が作れるというのは空想です。

 

 世の中に英語が広まったのは、文法が単純だからではなく、政治的・経済的な理由でした。エスペラント語が広まらないのは、それに乗れないでいるからです。


 小児性愛者も、一人だったりグループ活動だったりの動きに留まっている限り、世の中は何も変わることがありません。現在もそうであるように、ただ、圧迫されるばかりでしょう。


 だから、ビジネスによって、小児性愛者たちの願望をいかに可能な限り満たしていくかということが、小児性愛者たちが社会的に働きかけるべき具体的な行動となります。

 

 法律に抵触しない範囲で経済的な活動に乗り、商品その他を増やすことで、自分たちの願いや欲望を満足させつつ、享受者としてかつ創作者として、文化圏を作り、特性を生かしていくしかありません。


 中心的問題が性的なものであるだけに、どうしても下品な方向へ行きがちなのが避けられない問題としてありますが、経済活動に乗ることで、医療用に認可されたラブドールの製作や、小児型ロボットの開発につながっていく可能性もあるでしょう。

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