小児性愛者(ロリコン、ペドフィリア)のために考える

小児性愛者(ロリコン、ペドフィリア)のためになることを考えていきます

十代の妊娠と出産に関連して

 聖母マリアが処女のままで妊娠したと言う時、現代人の関心は専ら肉体にあります。しかし、かつては、結婚することと性交することとが完全に結び付いていたために、婚前に誰かと性交するなど無かったのです。それは罪の一つでした。日本でも事情は似たようなものでしたから、日本語の「おとめマリア」という翻訳の言葉のニュアンスはそれをよく伝えています。江戸時代の御成敗式目にも、不義密通は死罪に当たることとして挙げられています。

 

 そして、婚姻には大きな価値が認められていました。ですから、昭和の中頃でさえ、例えば離婚をして実家へ帰った女性は「出戻り」などと呼ばれ、蔑まれることがありました。家を継ぐ子供を産まなければならないと言うプレッシャーもありました。離婚自体が不幸なことと見なされ、離婚をした家庭の子供は荒れることがしばしばでした。

 

 現代では、事情が大分変わっています。結婚の意味は、ほとんどかつての意味を失ってきつつあります。それは家同士の約束ではなく、個人の意思に基づく約束であり、お見合いも、今では相手と出会うための催しになりました。離婚も比較的自由になり、離婚後、親同士が会うことで、子供の精神的な安定がより確保されるようになりました。同性婚については、もはや完全に婚姻という文化的行為が形骸化したことを表すものです。

 

 現代とそれ以前という極端な比較をしましたが、もちろん、徐々に社会的な変化は訪れるものであり、過去の状態と先の状態は併存するものです。それでも、ある期間を越えれば、感覚的に理解のできない所まで倫理観は変化します。聖母マリアの時代と御成敗式目の時代とには、例え同じ民族内であっても、互いに理解できないほどの感覚の違いがある筈です。

 

 当然、性交に関しても、その捉え方は変化しました。現代は、婚前交渉が当たり前のような時代です。だから、性交も、個人に、より責任のあることになりました。性教育の内容は、そのように編成されています。

 

 そういう社会状況にありながら、十代の妊娠が取り立てて騒がれるのは、なぜでしょうか。健康上の問題が多く取り沙汰されますが、なお、過去から来る倫理的な葛藤がそこには見られるように思えます。

 

 発展途上国には、現在でも、十歳ごろに結婚して子供を産んでいる所があります。聖母マリアは言い伝えでは十四歳でした。十歳での出産は肉体的に困難なことが予想できますが、十五歳となると微妙なところです。産めないとは言えませんし、日本ではつい近年まで、十六歳になれば女子の結婚は認められていました。十三歳が性交合意年齢であることを考え併せるなら、十三歳で出産し、十六歳になって結婚ということも、合法だった訳です。

 

 十代の妊娠は、問題ではなかったと言えるでしょう。それが問題になってきたのは、現代においてこそです。

 

 先に述べた法律は、かつての結婚制度と倫理的感覚に則った法律だったのです。今ではそれが、そしてそれに結びつく性的な事象についての感覚が変化したために、法改正がいろいろと検討されたり行われたりしているのです。

 

 しかし、話が産んでも良いという方向に全く向かわない点に、どこかまだ過去の常識に拘っているような印象を私は受けます。

 

 要は、十代で妊娠や出産をすると、本人の人生の選択肢が狭められるとか、産んだ子供をしっかり育てられないとかいう点から、結婚できる年齢が引き上げられたり、大人に性交を唆されかねないという心配から性交合意年齢の引き上げが検討されたりしている訳です。今後、成人するまで性交してはいけないという方向になるかも知れません。

 

 なぜ、出産した小学生や中学生が、そのまま学校に通えるような体制を考えないのか。地域でそういう子供を育てられるような施設等の設立が検討されないのか。個人の価値観や意識が大切にされる社会になりつつある中で、こういう事が「自己責任」や家庭の責任であるとだけ見なされるとしたら、その部分だけは、婚前交渉的な古い価値観で見られて裁かれているのではないでしょうか。

 

 「家族」も、やがては古い社会的習慣となり、分解する時代が来るかもしれません。その時には、親の責任や、誰の子供という意識も変化していくでしょう。

 

 古い社会であれば、婚姻することで子供との性交は合法でした。ただし、そこで一生が決まったようなものでした。将来は、性交合意年齢次第で、何歳の相手と性交できるかが決まりますが、先に否定的に書いた自己責任の部分もまるで無視するという訳にはいかないのですから、小学生と自由に恋愛や性交できる社会が訪れることはないでしょう。

 

 小児性愛者の悲願は、仮想現実の中でしか果たされないものだということになりそうです。