明治期に生まれた新興宗教には、神様のことを「おやさま」と呼ぶ、または形容するところが一つではないようです。浄土真宗の妙好人にも、阿弥陀仏を親と呼んだ人がありました。
ヤクザの親分というのも同様の感覚から出た言葉でしょうし、事実かどうか知りませんが、演歌の歌手も、師弟関係を親子のように表現するのだとか。
これらは、日本人が、親という存在をどのように捉えていたのかが窺われる事例だと思います。
頼りにして良く、甘えやわがままをも赦してくれる存在。赤の他人でなく、血が繋がっていて、自分を見放さない存在。いざとなればそこに帰ることができる温かな場所。
そのようなイメージが感じ取られます。
現代人にとっての親はどうでしょうか。「毒親」などという変な言葉があり、親による虐待なども珍しくない時代です。親の介護なども、子供の負担の懸念材料として挙げられる事例です。
漫画の『巨人の星』を見るとよく分かる通り、父親と母親もまた異なる存在でした。父親は、厳しくて乗り越えるべき壁のような存在でもありましたが、母親は、優しく包み込むような存在でした。
Amazon.co.jp: 巨人の星を観る | Prime Video
自我の自由と独立に大きな価値を置くようになった知的な現代人には、もはや「母親」は存在しなくなっているのかも知れません。
女性性、母性、男性性、父性という事も、実在するものではなく、単なる概念として把握されつつあります。
ただし、思考存在である人間にとって、概念は力あるもので、感覚に捉えられる現実よりリアルなものでさえ有り得ることには注意すべきです。
女性性や母性が現実において否定されたとしても、概念があるなら、それは存在していると言えるのです。
聖母マリアが分かりやすい例ですが、その姿形や属性がたとえ異なったとしても、同じような概念(理念と言っても良いでしょう)を備えているなら、効果や機能、働きも同じです。
前述の宗教における「親」は、女性性や母性の権化だと言えるでしょう。しかも、その力は絶対的で、完全です。
そういう存在を信奉する人生は、必然的に、「全托」「お任せ」「他力本願」の生き方になります。
人生に起こることは、みな親様が自分を育てようとして与えてくれたのだから、一見、辛く深刻な事であろうとも、真摯に向き合えば、必ず良くなっていく。
仏教であれば、そういう生き方が自分を業から解放し、開悟もしくは成仏するという教えになるでしょう。
こういう人生に努力目標は不必要です。日々、親様を信頼して任せ、真剣でさえあれば良いため、学問も特別な修行も要りません。
妙好人は、こうして市井の無学な人の中から生まれた聖人でした。
さて、ペドフィリアにこの生き方を応用できないものでしょうか。
現実世界で思いを果たすことが許されない小児性愛者は、いきおい、あれこれと夢想をして、その中で気持ちを晴らすしかありません。その空想の中には、上記の概念に似た性質を備える子供もいるに違いありません。
しかしながら、人生を任せられるほど強力な空想存在を産み出すことは、殆ど不可能です。
ならば、既成の宗教の中にそのような存在を探してみることができます。
親としての少年少女神。そこにも、小児性愛を癒す鍵があるように思われます。