時代が変われば常識もまた変わります。価値観や倫理すらも変化するのですが、そういうことを気に掛けないと、物質的な生活を除いて、過去にも未来にも現在と同じ内面生活が続いていくものだと勘違いしてしまいます。
生活習慣に関しても実は似たようなものです。一時ベストセラーになった『オニババ化する女たち』(三砂ちづる著、光文社、2004年)によれば、明治期、女性は月経の血が流れるのを我慢し、まとめてトイレで出していたことが書かれています。また、これは私も見た事があるのですが、日本の農村では、女性は立ち小便するのが普通でした。
尾籠な例になりましたが、現代人は、これらの事が事実だったと信じたり、感覚的に自分たちにも可能だと思ったりはできないでしょう。
身体的というか、文化的な技術が失伝したため、能力も失われた訳です。
現在、女性の立ち小便については、野外でもできるようにグッズ等が考案されてはいます。しかし、それは男性のやり方に則った形の域を出ることがありません。
女性は後ろ向きに尿を飛ばしていたのです。だから、男性用小便器にお尻を向けてすることが可能でした。
現代の子供に関するいろいろな常識も、かつては通用しないものだったと認識するべきです。
ほんの四十年くらい前まで、子供が親に殴られるのは子供の権利だ、愛しているから殴れるのだ、という言葉がテレビドラマで言われたりしたものだったのです。
同性愛者も性同一性障害者も、基本的にはずっと変人扱いでした。
そして、同性愛や少年愛の容認されていた時代や地域もありました。
異性の親子が一緒に入浴などすると、アメリカでは性的虐待だと捉えられると聞いたことがあります。これは、ともすれは今後、世界的なスタンダードになりかねない気風がないでしょうか。成人の混浴にも寛容だった日本でも、何歳以上の男の子の入れない女湯が既に沢山あります。
小学生の水着についても、なるべく肌を出さないような物が増えてきています。
なぜそのように変わってきたのか、また、何を大切にするためにそのように変わってきたのかを辿ることは大切です。
しかし、要は文化の問題なのであり、倫理といえども、万世にわたる絶対的な最善などはなく、時代や地域によって相対的に意味合いの変わるものなのだと捉えておくべきでしょう。
自分の息子を便座で座り小便するように育てることと、娘を立ち小便するように育てることとは全く同じです。
現代で、もしも前者が推奨され、後者は批判されるとすれば、そこから時代の思想的傾向を窺い取ることができます。
個人の問題意識と社会的な風潮とは互いに関わり合っています。
アイデンティティーの確立など、さして重要な問題ではなかった時代や社会は汎人類的な歴史としてありました。
ペドフィリアが個人的な、そして社会的な問題になったのは、どこでいつからだったのでしょうか。大したことではないとして、本人も気に留めずにいられる文化は無いのでしょうか。