小児性愛者(ロリコン、ペドフィリア)のために考える

小児性愛者(ロリコン、ペドフィリア)のためになることを考えていきます

子供依存症という観点

 ペドフィリアは、ただ子供に性的な行為がしたいとばかり希望しているのではなく、子供と親密な関係を築きたいとも願っています。要するに、愛してもらいたいのです。

 

 それも、親が子供から愛されるような形とは違って、よく「お兄ちゃん」という言葉がロリコンの作品で多用されるように、より対等に近い親密さで頼りにされることを望むようです。

 

 キリスト者共同体という宗教団体の牧師であった方が「女は理解されることを望み、男は信頼されることを望む」という話をかつてしたそうです。又聞きで、そこだけが印象に残っているので書いたのですが、異性愛者の男性のペドフィリアは、女の子から信頼されることを最も望んでいるのでしょう。資料のほとんどない女性のペドフィリアはどうなのか気になるところです。

 

 自己像が「傷ついた子供」であるなら、自分は子供だという感覚を持ち続けている筈です。実際には、そういう部分がありながら、他は年齢相応の成長をしているので、子供と全く同じ気持ちになって子供と遊んだりはできません。けれども、子供の部分があるため、大人の中にいても落ち着きません。それで、やはり子供といることを求めます。そこには、求めずにはいられない空虚感と孤独感があります。

 

 ペドフィリアとは、子供依存症であるとも言えるでしょう。一般的な数々の依存症、ギャンブルやアルコール、セックスと異なるのは、ペドフィリアにとっては、子供は、心が求めている対象そのものだという点です。空虚さなどを紛らわせる代替物ではありません。

 

 どうしても求めざるを得ないような、自分に絶対的に欠けたものが、ペドフィリアにとっての子供なのです。

 

 そう考えると、小児性愛者の治療についても展望を持てるように思います。

 

 一つには、欠けていると感じる体験を補填することです。どのようにそれを行うかは明言できません。これは、マイケル=ジャクソンがしていたことでもあります。しかし、子供と時々遊んだり、自分が子供のような遊びをしても、効果のほどは薄いようです。寧ろ、どっぷりと子供と毎日付き合うと良いだろうと思われますが、そういう環境は現代ではやはり教育関係しかないのです。

 

 小児性愛の「性愛」の部分は、思春期以降に現れてきたものです。もしかしたら、そこに直接触れなくても、子供時代の体験の補填によって、小児性愛は変質していくかもしれません。

 

 アルコールその他の依存症とは違い、依存の対象に浸り切ることが、ペドフィリア改善の鍵であると私には思われてなりません。