小児性愛者(ロリコン、ペドフィリア)のために考える

小児性愛者(ロリコン、ペドフィリア)のためになることを考えていきます

生体の反応と捉えれば

 子供の裸が見たかったり、子供とセックスしたかったりする欲望に延々と駆られるのがペドフィリアです。

 

 しかし、冷静に考えればすぐ分かるように、セックスなどしたとしても、満足は一時的なもので、再び何らかの欠乏感に絡め取られて、同じことを繰り返します。

 

 たとえ、一日に一人の子供があてがわれたとし、三千六百五十日、つまり十年間分の子供の性器などを確保したとしても、十一年目にはまた欲しくなり始めるのではないかと想像されます。

 

 この苦しみを積極的に消したいと思ったとき、実は自ら去勢を求める可能性が出てきます。

 

 去勢は性転換に少々似たところがあります。

 

 FTMやその反対の人たちは、手術後の自分に心から満足できているのでしょうか。生殖能力を失い、化学的処置でさまざまな姿を変える生き方は、実際のところどうなのでしょう。

 

 これ以上は無理という「達観」ができているのか、不満を内に抱え続けているのか。

 

 ペドフィリアが去勢をしても、空虚さが残る事でしょう。

 

 その空虚さがどこから来るのか、それを明らかにする作業が必要になります。

 

 しかし、それが予め分かるのであれば、去勢云々は全く余計な事になるでしょう。

 

 痛みや不安などを除去する考え方については前回書きましたが、そもそも、生き物として痛みや不安などがなぜ起こるのかに思いやると、それは生体の危険や不全さを示すものです。単に除去することは、危険や不全さを感じさせなくすることと同じです。

 

 かつて、ヒロポンと呼ばれる覚醒剤の一種がありました。過酷な肉体労働に従事する人が、疲労困憊した時にこれを摂取すると、「疲労がポンと取れ」たことからの命名だと聞いたことがあります。しかし問題なのは疲労自体ではなく、労働環境であることは明らかです。

 

 現代の鬱病に対して、実はこれに似た対処がされていると私は思う時があります。抗うつ剤や安定剤を服用しながら職場へ向かうというのは、原因をそのままにして、反応を誤魔化している事にならないでしょうか。

 

 小児性愛も、生体の何らかの反応だと考えれば、小児性愛自体を除去するような考え方にはならないだろうと思います。必要があって小児性愛になっていると考えなくてはなりません。

 

 ただし、これは小児性愛が後天的なものだと仮定しての話です。先端的なものである場合、別様に捉えなければならなくなってきます。