日本では、異性の裸を目にする機会が近年ますます減っているような気がします。
日本人の、南アジアとの文化的繋がりを指摘した民俗学者がかつて言っていたのは、日本人はよく裸になるということでした。半世紀前には夏に上半身裸で団扇などを扇いでいる男性が普通に見られましたし、温泉の混浴も珍しくありませんでした。
しかし、近ごろでは、混浴などほぼ無くなり、裸の男性など全く見かけず、水着でさえなるべく肌を見せないものが増えてきています。
野外でおしっこをする子供も見かけなくなりました。
こうなると、却ってちょっとした肌の露出に注目が集まることになります。
かつて私がヨーロッパで経験したのは、若い女子が腋毛を普通に生やしていたこと、背中まで見せる女子高校生の夏のいで立ち、それどころか、ノーブラで乳首の形のよく分かる二十歳過ぎの女性のシャツ姿、そして男女混浴のサウナでした。
ドイツで私は小学生の女子の腋毛というものを生まれて初めて目にしました。また、夏には緩い大きめのランニングシャツでいる子供が多く、ごく膨らみはじめの乳房が見えることもよくありました。それらを見て緊張したのは私くらいでしょう。そんな子供が普通なら、敢えて気にする者はいないのです。
混浴のサウナは結構衝撃的でした。鉱泉を使ったプールとサウナのある場所でしたが、プールで泳いでサウナに入ったら、全員全裸だったのです。老若男女いました。日本の混浴の温泉では、風呂に浸かっていない時には体を隠すのでしょうけれど、ここでは真っ裸です。サウナ室の中だけでなく、サウナ室のある区画全体が着衣禁止でした。四十代以上が多くはありましたが、二十代の女性や幼児も小中学生もいました。
また、当時学生だった私は、着替える必要のある或る授業を取っていました。更衣室はありませんでした。そこで、女子学生も下着だけになって着替えていました。これにはなかなか慣れませんでした。
屠畜や死や出産など、生きていることの生(なま)の現実に触れる機会が現代人には稀になっており、野菜も店にある状態でしか知らないような無知が広まっています。映像では人が死んだり殺したりの場面に慣れ親しんで何とも思わないのに、実際に人から殴られたことがない子供や若者は沢山います。
身体的な感覚と体験とが薄れ、情報と空想が過多になっています。これではまともな世界観は形成されないでしょうし、自他に対する大きな事故を起こしかねません。
異性の裸や子供の裸を目にすることのない日常も同じことです。