小児性愛者(ロリコン、ペドフィリア)のために考える

小児性愛者(ロリコン、ペドフィリア)のためになることを考えていきます

人のせいにするのはやめよう

 一体なぜ自分はロリコンなどになってしまったのか。自身のペドフィリアに気付いた時、人はそう自問します。そして原因をいろいろと探り始めます。

 

 あの時のあの出来事がきっかけだったのではないか。育てられ方に問題があったのではないか。脳の一部に欠陥があるのではないか。

 

 ナボコフの『ロリータ』にも、幼い主人公が、幼い恋人と性関係を持とうとする場面を人に見られて揶揄われるシーンが主人公の回想として出てきます。

 

 理由を探ることは自然な行動ですが、明確にすることは難しいものです。物理的な出来事の因果関係と違って、証明などはできませんし、同じ人間も同じ時代的状況も存在しないことから、実験的にこれが起こればこうなるといった一般化もほぼ不可能です。

 

 そのような条件下にあっても、ペドフィリアの原因を親や他者のせいだと思ってしまう事は有りがちです。何より分かりやすいからです。幼い頃に性的な事をされた嫌な記憶、今の言葉で言えば「虐待」された記憶が、最も原因として考えられやすいのではないかと思います。

 

 その事実自体に認め難い感情を持つのは分かります。それが無かったら、自分はこうではなかった筈であると思うと、強い自己憐憫と相手への憎しみとが湧いてきます。

 

 ペドフィリアに限らず、性的な傷と感じられた事は同様の思考と感情を促し、それは対象が広げられて、何らかの権利運動のようなものになる事があります。

 

 しかし、ここには罠があります。その事を追及していったとしても、自分の状態が改善されはせず、憎しみと被害者意識ばかり膨らんでいく点です。

 

 病気の場合でも、痛みや苦しみを医者に対して「早く何とかしてくれ」などと思っていると、耐え難いばかりか、医者への憎しみすら覚えてきます。

 

 病気も心の傷も、自分の問題としてまずは捉えてしまう方が精神的には安定するようです。

 

 曹洞宗僧侶の南直哉氏は、著書『善の根拠』(講談社、2014年)その他で、自分を認めて親を許せというような事を述べていますが、主体的に生きるにはそれしかないと考えるからでしょう。

 

 仏教含む宗教の輪廻転生思想ではよく「自分が親を選んで生まれてきた」とか「自分の運命は自分が決めてきた」と言います。南直哉氏は、そんな事はあり得ないと、輪廻転生思想自体を否定しているらしいのですが、考えようによっては、自分に起こる不幸は自分が望んできた意味のある事だと捉えると、より積極的に人生を生きられるのかもしれないと思います。それは、誰をも責めず、よそに責任の所在を求めない考え方です。

 

 自分は求めてペドフィリアを備えるようになった。それが自分に必要であり、成長の糧だったからだ。

 

 その観点から人生を捉え直してみませんか。