以前言及したDSMによると、小児性愛障害は、児童との性愛の渇望に苦しむということで特徴を規定されています。
しかし、そればかりでなく、自分にそういった性質のあること自体に苦しむのです。そして、意志ではやめられません。本当に意志を以てやめようとするなら、大人の異性愛者が性欲を滅し尽くそうとするのと同じだけの努力が必要になります。
自分に小児性愛の傾向があることが認められず、許せないというのは、倫理的な話です。世間的な倫理基準に照らし合わせても、到底許されることでもなければ、受け入れることもできないと思ったとき、自分の存在に対する絶望感に苛まれます。
そこから抜け出す方法は僅かしかありません。
一つは、倫理と自分の倫理観を否定することです。即ち、子供とセックスする事は問題ないと考える。謂わば、居直りです。
もう一つは、表には小児性愛を隠しつつ、代替物の収集をすることです。画像や動画、下着やラブドールなどの人形、または絵や小説などで、気持ちを晴らすことですが、代替物である以上、収集にはきりがありません。
実態としてはこれが最も多いでしょう。倫理的な感覚は、隠している分、残り続けて苦しむか、または代替物に触れているうちに麻痺していきます。
もう一つは、自分を変えようと試みることです。医療機関への受診もここに入ります。
正義感が強いペドフィリアほど、苦しむことになります。
カトリックの神父の小児性愛について取り沙汰されたことがありましたが、そのように、自分のあり方を分裂させる人もいます。敬虔な心と、子供とセックスしたいという欲望とが併存するのです。
もしかしたら、自分ではどうにもできない悪徳を心に抱えている自覚は、歎異抄に見られるような親鸞の思想を深く理解し、それに救われることにつながるかもしれません。