小児性愛者(ロリコン、ペドフィリア)のために考える

小児性愛者(ロリコン、ペドフィリア)のためになることを考えていきます

小児「性愛障害」である限り、純愛は不可能

 インターネット上の話ですが、よく、ロリコンの人の言説に、自分は子供に手は出さない、というものが見られます。 

 

 しかしながら、これを考えるに、手は出さないとは、直接的な身体に触れる犯行には及ばないという意味以上の内容はありません。画像や実物併せて、いわゆる視姦なら山ほどしていることでしょうし、子供の使用済み下着などを集めているかもしれません。また、文章やイラスト等により、想像上ではどこまでの事を性的にしているか、分かるものではありません。つまり、もしも実物に触れられるならしたいことの種を常に撒き、またそれの育つ土地を肥やしているようなものです。

 

 実害がないのだから、社会的にはそれでも良いだろうということですが、空想なら何をしても良いのかと真面目に考えるなら、そうではないという結論になるでしょう。強姦に強い願望を抱いている警察官や、マゾヒストの幼児教育者を心から信頼できるかと言われたらどうでしょうか。

 

 この事は、何も小児性愛に限った話ではなく、あらゆる倫理的な事象に関わることではありますが、ここでは小児性愛に話を絞ります。

 

 表現の自由という問題も似たようなことで、こちらは一人で空想している場合と異なり、社会的な影響を及ぼしかねないため、複雑な話になります。

 

 空想を表現して開示すれば、それはさらに膨らんだ空想を喚起していきます。ただ、空想すること自体を外から取り締まることは不可能でもあり、個人の自由に干渉することでもあります。

 

 小児性愛者の空想は止められないものです。そして、切実な内面の衝動を人は表現しようとするものです。だから、子供に手は出さないと決めても、その他諸々はやるのです。いくら注意されたり説得されたりしても効果はありません。社外的な規則罰則を設けても、実際、水面化では何も変化はありません。

 

 小児性愛者が変化するのは、小児性愛以上の価値ある何かを見つけ、認識できた時でしょう。

 

 そもそも小児性愛者は、自分に絶対的に欠けていて必要な存在が子供であるから、子供を求めている訳です。それを諦められるほどの価値を見つけて、それを他者とも共有できたなら、人にどんな違いがあろうと、互いの「ありのまま」を否定せずに、看過できるのかも知れません。