小児性愛者(ロリコン、ペドフィリア)のために考える

小児性愛者(ロリコン、ペドフィリア)のためになることを考えていきます

悪への憧れ

 1970年代まではアニメに「悪」と「正義」が明確に存在しました。それが今ではどうでしょうか。何年か前に作られた『サイボーグ009』の映画では、何が正義なのか分からなくなり、戦う意味を見いだせない主人公の苦悩が描かれていました。

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 いろいろな価値が相対化されて、こうでなければならないという共通の価値観が現代には見出しにくくなっています。

 

 ところが、面白いことに、善は見出しがたいのに、悪はあるのです。

 

 考えようによっては、この解釈は簡単です。

 

 万人にとって益のあることが善だとするなら、価値観のばらばらな現代人にそれは見出しにくいものです。そして、誰かの不利益になる事が悪だとすれば、価値観がばらばらであるだけに、そういうものは幾らでも出てきます。

 

 そして、ゲームでも漫画でも良いのですが、物語の中では悪が魅力ある存在として描かれることが多くなっている印象を私は受けています。

 

 悪の性質を考えると、周囲の価値観に同調せず、自分自身のあり方と価値観を押し通す面があります。

 

 エゴイズムが良い意味で使われない言葉のまま残っていても、人々はエゴイズムにどこか憧れています。

 

 現代では、自我意識をますます大切なものとして捉える傾向にあります。自分が自分として、他者とは違う独自の個性でありたい。それが自分探しでもあるのですが、簡単に自分など見つかりはしません。

 

 そういう時、悪事はそのような自分を一時的に演じさせてくれます。人と違う見た目や行いをし、権威に逆らう強さを示し、同時に、従わない自由を感じさせてくれ、何か格好の良い自分に対する陶酔感さえ得られます。

 

 自由や自主独立、個人主義、エゴイズム、悪とは関係があるのです。

 

 小児性愛自体がアイデンティティーになり得ると、前に書きました。しかしその傾向を悪の方向へ結びつけることも、極めて簡単です。

 

 ただ反抗し、人と違う事をして「自分」を浮き彫りにさせるやり方には限界があります。不調和による自由は、やがては不自由に至らざるを得ません。悪を求め続ければいずれ破滅するのも必至です。

 

 小児性愛者だからこそできる善行に向けて、自分を発展させ、個性としていくことが、確固としたアイデンティティーを築く道なのではないでしょうか。