前回、自己肯定感と自己否定感について考え、小児性愛者の場合、自己否定感から抜け出ることが難しいと書きました。
自己肯定感にしろ自己否定感にしろ、それらは自己イメージに過ぎません。それでも、人間は何らかのものの見方を持って生活する存在ですから、自己イメージはその人の生き方そのものを左右します。
認知行動療法は、そのイメージと事実とのずれに気付かせるものです。
ところで、伝統的な宗教では、このような自己イメージを徹底して否定することを課してきました。自分が罪人である事を自覚し、自分を虚しくしてキリストに寄り頼むカトリックもそうですし、禅では自我の実在を否定し、ありのままを認める「こだわらない」生き方に至ろうとします。
現代人は、反対にひたすら自分探しにこだわります。「こだわる」という語にはもともと否定的なニュアンスがあったのに、現代ではそれが肯定的な響きを持って使われるようにもなっています。
アイデンティティーの確立こそ、現代人の主要な関心であり課題だと言えるでしょう。
自分らしさや、何を自分は自分の行うべきこととして人生に据えるのか、といったことに人は悩み続けます。
ところで、自己肯定感や自己否定感を置いておくと、ペドフィリアというのは、他人に真似のできない「個性」でもあります。そこから離れることも容易ではありませんが、なろうとしてなれるものでもありません。
ならば、逆手に取って、これをこそ自分のアイデンディティーにしてしまってはどうでしょう。
放っておけば、自己否定感にしか繋がらない特性を、意識して、肯定的に捉えてしまうのです。そこから何が見えてくるのか。
歴史を辿ると、差別されてきた側は、そのように自分達の価値を見出すことによって、世の中の見方を変えた過程があります。