性犯罪において最もどうしようもない類は、衝動に任せ、暴力に訴える強姦でしょう。動物の発情期の状態とそれは変わらず、人間的な精神活動を欠いているとさえ言えます。
嫌がる女性の衣服を男性が剥ぎ取り、女性器を露わにさせ、その小さな穴を一心に求めて、体に比較すればやはり細くて小さい男性器を無理やり差し込む。後は腰をひたすら前後させて射精です。
冷静に見ると、実に、下らない行為なのではないでしょうか。そして、他でもない膣口に差し込むのは、割と難易度が高くもある訳です。
他の場所に入れたり、またはそこに他の物を入れたりした方が簡単な筈なのに、何故そんなに頑張ってまでするのかと、性欲を知らなければきっと不思議に思うでしょう。
そもそも、他人の体の最も臭くて汚い部分を乞い求める性行為は、理性と相入れません。
オオスズメバチの雄は、集団で他の巣を襲い、新しい女王になる候補の雌を強姦します。雌たちは必死に逃げようとしますが、そこへ何匹もの雄がしがみ付いて離しません。
雄に針はなく、雌には針があるにも関わらず、雌は雄を刺すことなく、逃げ惑うばかりです。
しかし、襲われた巣の働き蜂は、雄に容赦しません。敵と判断し、雄を殺しに掛かります。
うまく強姦に成功しない雄は殺されてしまうのです。
ネオダーウィニズムでは、遺伝子を残すことが生物の存在目的のように考えているようですが、このオオスズメバチの雄の命懸けの様子を見ると、さもありなんと思わされます。
襲われた雌が、後からトラウマに悩まされるなどということもありません。
人間はどうでしょうか。例えば、SPに囲まれた好きな女優に命懸けで襲い掛かり、子宮に精子を放出することに成功したところで射殺される。
そこまでやる価値があるでしょうか。むしろ、良い点が何もないような気がしないでしょうか。
昆虫や動物と同じようなことをしても、人間は満足できないし、社会生活も成り立たないもののようです。
しかし、人間が、理性の力を用いて性欲に関わると、大抵は下品で、理性を使えば使うほど老獪なものになっていきます。
商品として常に新しい刺激を与えねばならないアダルトビデオなどは、次第に奇々怪界な内容にならざるを得ません。
性的な力を肯定的に用いて存在を変容させようとする宗教が伝統的にありますが、それも往々にして横道へ逸れる危険があります。
しかし、理性を用いた性行為は、それに取り掛かるまで、ものを考えるために、行為を対象化しなくてはなりません。言い換えると、対象化することができます。
性欲と行為の間に隙間ができるのです。
そこで、この行為の是非を人間は吟味するべきです。
吟味するべき判断基準をどのように持っているかにより、その行為を不幸なものにするか、幸福なものにするかも決まってきます。
欲しきは、相手への道徳的想像力です。
しかし、まず理性を働かせないようでは、想像力も何もありません。
強姦よりは、老獪な下品さがマシというものです。
ペドフィリアの場合、法律を掻い潜りつつ、いかに子供の裸が見られるかに腐心せざるを得ない立場ですから、老獪にもなるというものです。
襲いかかったり連れ去ったりして強姦するような、動物的で稚拙な行動を、小児性愛者こそしないようでありたいものです。