優生学とは,「人類の遺伝的素質を改善することを目的とし,悪質の遺伝的形質を淘汰し,優良なものを保存することを研究する学問」である(『広辞苑 第6版』岩波書店,2008)。
これは、用語の解説 優生思想 | 障害保健福祉研究情報システム(DINF)というサイトからの孫引きですが、どこを調べても、用語の意味としては大して変わりはないでしょう。
優生学は、ナチスドイツと結び付けられたり、日本の障害者に対する事件に引用されたりして、悪いイメージがあるのではないかと思われますが、この説明を読む限り、極めて真っ当な事を言っているとしか思われません。
自分の子孫が、より健康で優れた素質を持つものであってほしいと願うのは自然な事です。
より大きな視点に立つなら、子孫とは、家族を超えて自分たちの民族であり、人類全体という事になります。
ここに「人種」という概念はもはや適用されないでしょう。人種レベルで「私たち」と言えるのは、他の人種と同居しながら総合的に差別を受けている場合のように、極めて特殊な状況下のみであると思われます。
ともあれ、知能や臓器に異常があったり、重い病を起こす可能性を孕んでいたりする事を、誰も自分の子孫に望むわけがありません。
そうならないように研究する学問が優生学なのですから、志には非の打ち所がないと言えそうです。
問題はその適用でしょう。対象となるのが自分ではなく、自分の子孫や自分たちの子孫である点が、現代人の感覚に引っ掛かるのです。
国家・国民として考えれば、将来のために、優良な性質を持つ人にこそ子孫を残してほしく、障害や遺伝的疾患を持つ人には、申し訳ないが子孫は残さないで欲しい、という考えになります。
要するに、全体主義に陥りやすいのです。そして、それは他人を強制し、その自由を奪う事にもなります。
ところで、優生学のような歴史的な観点を取らずとも、現在生きている人々は健康志向です。病気などないほうが良いと思っていますし、健康で長生きすることが幸福だと考えています。
実はこれは優生思想に通じる考え方です。
優生学にせよ、健康志向にせよ、不健康な人間の身の置き所がどこにあるのでしょうか。
障害は個性だ、健常者でないマイノリティーを尊重せよ、みんな違ってみんないい、と言っても、人々に健康志向・健康第一主義がある限り、それは根付かない思想だと言えるのではないでしょうか。
すでにその兆しがあるように、健康志向は、いずれ人体の機械化へと幅を広げるでしょう。そして、遺伝子操作による疾病の予防も行われていくことでしょう。
そこから離れるとしたら、疾病や異常や死を受け入れ、自然治癒力を超える範囲の医療を諦めることです。
進化論は理論なのですが、その理論、特にネオダーウィニズムを人類内に敷衍すると優生思想に繋がります。ネオダーウィニズムが真理だと信じれば、自然界からのお墨付きが得られたかのように、権威を持つことができます。
そして、LGBTやペドフィリアなどは、放っておけば子孫を残せず死滅していく劣等個体として捉えられて当然だということになります。
先に述べた通り、この方向性から根本的に離れるには、ありのままを認める事、但し、「そのままでいいのだ」ではなく、「仕方がないのだ」という諦めと、社会ではなく自分の意識を変えていく事のほか無いのだろうと思います。
しかし、そうはなりそうにもありません。
むしろ、自分の求める部分は実現させ、そうでない事は否定する方向へ向かっています。性転換然り、不妊治療然り、ある種の整形手術然りです。
これを優生学に当てはめるなら、例えば、自分の家系は数学に強くあってほしいと、特定の能力を強化する方向に向かわせることでしょう。青い目の子孫が良い、などと言うのも同じことです。特定の願望が遺伝に注入されるとエゴイスティックなものになりますが、精子バンクや代理母について、同様の議論がありました。
もしもこの方向にますます進む形で技術が進歩し、人と動物の間に位置するような生物が創れる事になったりしたら、小児性愛者たちは、知能も姿形も子供のままでいるような、愛玩用の準人間を求めるのではないでしょうか。