今週のお題「行きたい国・行った国」
今からもう20年前になりますが、私は一人でリトアニアへ行ってきました。
知っているのは、演劇で見た杉原千畝のことと、ヨーロッパの言語としてはきわめて古い形を保っているというバルト語派のリトアニア語がつかわれていることくらいでした。
たまたま、エスペラント繋がりで知り合いができたので、何となく行ってみることにしたのです。他には知り合いもいないし、どんなところかも全く分かりませんでした。
そのころ、私はドイツで勉強していたので、あまり遠い感じがしませんでいたが、東ヨーロッパはなお未知の雰囲気がありました。
記憶では、一度チェコに降りて、そこからリトアニア行きの小さな飛行機に乗り換えたはずです。
やはり小さな空港に降りると、知人が待っていてくれました。共通語はエスペラントだけです。彼女はほかにロシア語ができましたが、私はできません。なお、このころ、リトアニアでは英語は特別な言語で、ほとんどの人ができませんでした。
ビリニュスからカウナスまで移動するのですが、電車がないとのこと。乗り合いの自動車に知らない人たちとすし詰めで移動しました。
カウナスの町は、旧ソ連の建物が健在でしたが、ところどころひびが入ったりしていました。そして、どれも巨大でした。新しくできたデパートなどは、その巨大な建物の中にありました。
彼女の家はカウナスから自動車でさらに30分くらいかかる田舎でした。村に入ったら、放し飼いの犬が何匹も吠えながら車を追いかけてきました。
元はコルホーズだったというその土地は、地平線が見えるほどはるか先まで平原でした。今では牛が数匹しかいないとのこと。
彼女の部屋は木造1戸建ての2階にあり、その部屋の中にまた戸がありました。その中は、豚肉を干す場所でした。トイレと風呂場は地下にありました。風呂は半分に切ったドラム缶です。
彼女のお父さんは、戦争の影響でドイツ語ができたので、話が通じましたが、お母さんはやはりリトアニア語以外はロシア語しかできず、一切通じませんでした。
彼女は、自分ではフェミニストだと言っていました。しかし、実際には、家事などは彼女がするものと決まっていましたし、私が皿でも洗おうものなら、お父さんが良い顔をしませんでした。
ドイツにいる時、ロシア人の女の子が率先して部屋の片づけをしてくれたりするのに驚いたことがありました。ドイツではもちろん、日本でも最近はほとんどないことでしょう。
私は別に、女性がそういうことをやるべきだという考えではありませんが、そういうことをされると親切さを感じます。
西ヨーロッパより東ヨーロッパの女の子のほうが絶対的にやさしい、と私はそのころの経験から、思い込んでしまっています。
カウナスは行った折にぶらつきましたが、観光は全然せず、家で乳しぼりの手伝いをしたり、エスペラントの集会へ出かけたりして、1週間ほど滞在しました。
買い物に行った折に気づいたのが、走っている車がほとんどドイツ製なのと、新しくできたスーパーの品もドイツ製が多いということでした。
なお、半年くらいして2度目に行った時には、ノキア社かどこかの携帯電話をみんな持ち歩いている状態になっていました。
ソ連崩壊後の不安定な経済状況が反映されている様子を目にした思いでした。「ソ連の頃は仕事がみなあったけれど、今は貧乏になった」と、彼女のお姉さんが話していたことが印象的でした。
彼女の計らいで、地元の小学校を見ることができました。不思議なことに、子供たちが、ものすごくおしゃれに着飾っていました。外でもそうだったので、何かの流行だったのでしょうか。ちなみに、学校の男女のトイレは同じ空間にありました。
ドイツに帰る前日は、エスペラントの創始者ザメンホフの細君か娘かが住んでいたという建物に泊まらせてもらいました。確か、カウナスのエスペラント協会の本部になっている所です。
アジア人など見たことの無い人ばかりの中で、みな私に普通に接してくれました。リトアニア語が話せたらどんなに良いだろうと思いました。
自分にやることがあれば、リトアニアに住んでも良いと思っていました。浮かれ気分も何もなく、そこにいることのできる国でした。