2023年10月2日のT B Sニュースのデジタル版によると、某有名予備校の元講師二名が、女児の盗撮及び個人情報を漏洩した件で同年9月30日に逮捕されたそうです。
彼らは小児性愛者の集うSNSに女児の写真や情報をアップしており、スカートの中なども盗撮していたようです。
「盗撮」とは、本人の許可を得ずに撮影する「盗み撮り」「隠し撮り」の意味ですが、はや数十年前から、ほぼ「覗き」と同じ意味を持った撮影のことを指すようになりました。裸体や排便に至る極端にプライベートな様子を、狙って盗み撮りすることです。
SNSはこういう所行を助長しました。インターネットがさほど普及していない頃にも、『FRIDAY』(講談社)など、プロによるさまざまな隠し撮りを記事にした雑誌がありました。それでも、技術上、現代のような「拡散」には限度がありましたし、明らかに違法なものは出版などが困難でした。
たとえ個人的に写真撮影に熱を上げていた者でも、かつての埼玉県の「幼女連続殺害事件」の犯人のように、特に他者に対してそれを見せることに重きは置いていなかったことでしょうし、その方法もありませんでした。
それが、昨今では、簡単に持ち歩けるスマホや、どこでも設置可能な小型カメラにより盗撮して、それをSNSで広く他者に公開することが流行しています。
今回の事件では特定のグループ内でのコンテンツ共有だったようですが、不特定多数に対して公開し、他者がそれをまた再投稿することによる拡散現象を喜ぶ者も世の中にはいます。中には、明らかな嫌がらせの目的でこうした拡散を行う者も存在します。
実は後者のほうが、していることに自覚的であると言えるかもしれません。つまり、前者は、自分たちが何をしているのかよく分かっていないのではないかと思われるのです。
美しい女児が好きである、これは明白な感情的事実です。しかし、その写真を撮り他者と共有すること、しかも性的興奮を刺激するような盗撮なのだとすると、これは既にネジが狂っているのではないでしょうか。
感覚がほぼ昆虫採集です。違うのは、性欲が伴っていることくらいでしょう。小児性愛の目的は既にすり替わって、盗撮そのものになっています。子供が好きだという当初の思いの何事も達成されません。達成されないが故に、盗撮行為の再生産が続くばかりです。
楽しみは唯一、同好の士との交流でしょう。これも昆虫採集の場合と変わりません。
やがては子供が生きた人間だという感覚すら鈍り、事の善悪も感じなくなります。講師として授業している時の感覚は保ちながら、それとは別な下心ある目を並行して光らせ、盗撮のネタと機会を狙います。人間が分裂している状態です。
このような人たちは、自分のペドフィリアをどうするつもりだったのでしょうか。
例えば、その人の性対象が13歳以下であり、その相手と性交の合意があることを認めるかどうかということは、その社会の思想的風潮や文化に関わる問題です。けれども、個人の肉体的恥部などを盗撮し、それを当人の知らない人と共有したり、不特定多数に拡散したりすることは、動機からして悪事でしょう。
SNSは、その感覚を麻痺させる媒体になり得るものです。
小児性愛者は、何を自分が動機として、どのように行動しているのか、自己を見つめなければなりません。