小児性愛者(ロリコン、ペドフィリア)のために考える

小児性愛者(ロリコン、ペドフィリア)のためになることを考えていきます

誰かのためなら頑張れる、かも知れない

 

 木山啓子『誰かのためなら人は頑張れる』(かんき出版2010年)に以下のような話がありました。

 

 2004年、インドネシアスマトラ島沖地震と呼ばれる大地震が起こりました。規模はマグニチュード9.3、死者は22万人と言われています。大津波も起こって、周辺の国々に被害が及びました。

 

 スリランカも被害を受け、ある男性は家族を全員失いました。当時まだイラク戦争で危険だったイラクに男性は出稼ぎをしていたので、家族は男性のことを心配しながらその帰国を待っていたそうです。それが、男性が帰ってみたら家族はみな亡くなっており、絶望した男性はアルコールに溺れる生活をするようになったそうです。被災地に来た筆者の国際的自立支援団体であるJENにもどうにもできなかったことが書かれています。

 

 その男性を変えた出来事がありました。それは、男性と同じく家族を失って生き残った男の子に出会ったことでした。この子を何とかしなくてはと思った男性は、男の子を引き取り、共に暮らすうちにJENにも協力するようになり、プロジェクトチームのリーダーになったそうです。

 

 何かへの依存症というものは、現代では脳の病気だとされています。現実があまりに辛い場合には、そこから少しでも楽になる為に、人は依存症になりやすくなります。一度なってしまうと、自分から努力して改善することは容易ではありません。

 

 辛いことや嫌なことから離れたいと思う人はみな依存症になり得ます。つまり、誰でもなるということです。

 

 自分のためには何もできない絶望的な状況でも、誰かのためなら人は頑張ることができ、自分も変わってしまうという不思議が人間にはあるようです。

 

 自己実現というのは、自分のオリジナルを探すことではなく、人や何かの役に立つようになれることなのかも知れません。

 

 精神的なさまざまな問題も、そこにフォーカスし続けるより、外の世界に興味を持って目を向ける方が変化が早いのかも知れません。

 

 ペドフィリアにも果たして同じことが言えるでしょうか。

 

 これまで度々取り上げてきた、教育関係に進むという方法は、対象そのものである少年少女に目を向け、それに仕えることでペドフィリアを昇華しようという案でした。これには相当な覚悟と善意を必要とし、それなくしては却って犯罪を犯しかねないポジションに身を置くことです。

 

 しかし、少年少女でない誰かの役に、全体ペドフィリアの人間が立ちたがるのかという問題もあります。小児性愛者は自分と他者に対して絶望しています。

 

 ただ、何らかの作業に没頭し、それが間接的に他人の役に立ち、感謝の反応を受け取ったとしたら、やり甲斐が生まれるには違いありません。

 

 ペドフィリアを振り返る余裕のないほど熱中できる行いを持ち、その技術を磨くことに没頭した結果、誰かの役にも立っている。そのような生き方ができると、何か変わるかも知れません。

 

 

教員による性加害

 このところ、立て続けに教員の性加害が報道されています。ついでに熊による被害のニュースもやたらと目立ちます。これは、普段からあったものを集中的に取り上げることで、増えているから問題だという意識を人々に植え付ける効果が狙われているのかもしれません。そのように穿ってみる見方も現代では必要不可欠に思われます。

 

 教員による性加害については、例えば、Yahoo! JAPANには

https://news.yahoo.co.jp/articles/1237a0b9ad0976af4570a0dbf7179ce7c290498a

また

https://news.yahoo.co.jp/articles/585acda324c5666ef48fbcbb5f13b021256a4e3a

がごく最近の記事としてありました。

 

 最初のものは随分と記述が詳しく、内容的に「加害者の認知の歪み」を強調しているようにも感じられます。発信は「弁護士ドットコム」です。

 

 二つ目のものも、加害者とのやり取りの記述には同様の意図が窺われます。こちらは「FRYDAY DIGITAL 」です。

 

 それはともかく、教員による性加害はやはり多いのでしょう。

 

 「東京新聞TOKYO Web」によると、2022年に懲戒免職となった教員の事例が都内で6件、相談は88件に上ったということです。

教職員の性暴力 22年度相談88件、懲戒処分6件 都教委、対策強化へ:東京新聞TOKYO Web

 


 この数には小学校から高校までが含まれるので、教員の問題としてはまとめられますが、ペドフィリアの問題とは限りません。念のために述べるなら、先に挙げた二例は、都内ではありませんが、相手は小学生でした。

 

 この場では、どうしたら子供が被害に遭わないように事件の発生を防止できるのか、はたまた、教員の質に関する判断と対策について、といった視点は取らずに考えていきます。そして、現行の法律上はどうであろうと、16歳以上の性的に成熟した生徒を相手とする高校の教員は別な範疇と考えて、ペドフィリアである教員に話を絞ります。

 

 なお、改めてことを捉え直すならば、性的な対象となる年齢の相手に教員が手を出したという点では、小学生だろうと高校生だろうと似たような話です。違うとすれば、後者は相手も性的に成熟しているが故に、そちらからのアプローチがあっても不思議でないこと、そして、主体が前者では「小児性愛障害」と呼ばれる状態にあって、性的な欲望に駆られ続けていることでしょう。

 

 後者の場合は、文学のテーマとして扱われる事例が歴史的にも枚挙に暇がありません。謂わば「浮気」と同類の不道徳かつ誘惑的な、起こっても仕方のない人間的行為の一つだと目されてきた訳です。

 

 他方、前者には、文学に教師と児童という取り合わせはまず見られず、大人と子供のもっと広い取り合わせばかりです。文学的にも不道徳を超えて反社会的でさえあるテーマとして扱われ、結末は不幸になるものと相場が決まっていました。これを美化して呼ぶとすれば、「悪徳」にでもなるのでしょうが、そういう作品にはお目に掛かりません。

 

 少なくとも近代以降、ペドフィリアは社会的な悪だと見做されてきたようです。

 

 さて、なぜ教員にペドフィリアがいるのでしょうか。これは、過去のブログ記事にも書きました。子供が現代では学校空間もしくは塾などの教育的施設に集まっており、そこに行かなくては子供に近づけず、そこへ行けば知り合うことさえ可能だからです。そして、強制的にでも複数の子供を相手に関われるのは教員やコーチのような立場しかありません。ペドフィリアは、自分の心の苦しみを寛解させるためには子供の存在が必須だと信じています。だとすれば、子供の近くにいられる職場を選ぶのは当然だと言えますし、彼らが生きていくのには実際に必要なことなのかもしれません。しかし、性愛が大きなポイントである分、犯罪にも陥りやすいところが問題であるわけです。中には、犯罪などに走ることなく退職まで勤めた人も沢山いるでしょうし、ペドフィリア寛解した人もいるかもしれません。

 

 ペドフィリアの背景には、愛着の問題が必ずあるように思われます。母親や父親からは得られなかった人間関係の安心感を、子供の性質から取り返そうとしているかのように見えます。大人といる時には外せない鎧や仮面を子供の前でなら外せる、または、外しても安心できると信じているようです。

 

 しかし、教師など、完全に仮面を被るのでなければ成り立ち得ない立場でしょう。そして、子供に信頼される為にはその仮面は脱いではいけないのです。子供の成長のためにこそ教師がいるのですから、子供の信頼や尊敬を得て子供の善なる心が育つことに関係ないような、個人的な資質などを教師は子供の前で披露すべきではありません。その意味で、教師と子供との間には必ず距離がなければならないのです。

 

 立場上、子供に近づくことができ、子供に信頼されたと感じた時点で教師の取るべき距離を忘れてしまう。ここから不幸が始まります。

 

 思えば、ペドフィリアが教員になることには大変なジレンマがあるものです。量的には他者より子供に近づきながら、心理的な距離は他者より遠く保たなければならないのですから。

 

 しかし、ペドフィリアは子供を愛しており、繊細な感受性もある分、この位置関係を崩さずにいることができるなら、良い教員にもなれる可能性が大いにあります。

 

 それにしても、余程の善なる使命感を併せ持っていなくては、多かれ少なかれ、児童・生徒に手を出さずにはいられなくなる事は予想できます。或いは「裏の顔」を持ち続けて、性的な欲求を、子供を念じつつ自宅で吐き出す事でしょう。

 

 教員を目指す若い小児性愛者は後を絶たないに違いありません。果たして小児性愛者の愛着の問題は、教員になることで寛解するのでしょうか。そして、しないとすれば別の場で解決することはできるのでしょうか。

SNSの動向

 近ごろ、私のX(旧Twitter)のアカウントが凍結されました。また、Instagram系のSNSであるthreads でアカウントを作ろうとして、「小児性愛」という語を検索したら、細かい言い回しは忘れましたが、不適切な、もしくは利用規約に違反する可能性のあるワードが検出されたと出て、先へ進めませんでした。

 

 ペドフィリアに対する捉え方の視野を広げるべく、このブログの内容を知っていただきたい私としては、リンクできるような場所が必要で、あらかじめこちらから誰かをフォローできたり、過去の書き込みなどを知っておいたりするために、検索をかけなければなりません。しかし、単語の段階で検閲をされ止められるのではどうしようもありません。Xのアカウント削除も、私のブログと同じタイトルのせいだろうと推測しています。

 

 確かに、児童ポルノ等を拡散しようとする輩も、その享受者を特定したい意味から、やはり同様の検索を行うのでしょう。発信者も受信者も、そのようなコンテンツに辿り着けず、ましてや交流などさせないようにして、犯罪を未然に防止するという考えは分かります。

 

 間違いなくAIによる検閲なのでしょうが、これでは、何か特定の事象が不適切だと運営側が認定した場合、その話題に触れることさえできなくなっていきます。YouTubeでも、そのような不便さを嘆いている発信者がいる事を知っている人もいるでしょう。

 

 特定の単語が不可となると、単語を変えて同じことを継続するという事例は枚挙に暇がありません。俗な事例ならばそれでも仕方ないのかもしれません。しかし、小児性愛といった医学的に認められている用語では、そうそう単語をすり替えることはできませんし、できるとしたら変な話です。SNSのような場でなく、専門的な場で議論しろとの意見があるのかも知れませんが、それでは私のような一般人の発言の場や、意見交換の場がなくなってしまいます。

 

 たとえ真面目な意図でホームページを立ち上げたとしても、それ自体に検閲がかかって削除されるのではどうしようもありません。

SNSと自己認識

 2023年10月2日のT B Sニュースのデジタル版によると、某有名予備校の元講師二名が、女児の盗撮及び個人情報を漏洩した件で同年9月30日に逮捕されたそうです。

 

 彼らは小児性愛者の集うSNSに女児の写真や情報をアップしており、スカートの中なども盗撮していたようです。

 

 「盗撮」とは、本人の許可を得ずに撮影する「盗み撮り」「隠し撮り」の意味ですが、はや数十年前から、ほぼ「覗き」と同じ意味を持った撮影のことを指すようになりました。裸体や排便に至る極端にプライベートな様子を、狙って盗み撮りすることです。

 

 SNSはこういう所行を助長しました。インターネットがさほど普及していない頃にも、『FRIDAY』(講談社)など、プロによるさまざまな隠し撮りを記事にした雑誌がありました。それでも、技術上、現代のような「拡散」には限度がありましたし、明らかに違法なものは出版などが困難でした。

 

 たとえ個人的に写真撮影に熱を上げていた者でも、かつての埼玉県の「幼女連続殺害事件」の犯人のように、特に他者に対してそれを見せることに重きは置いていなかったことでしょうし、その方法もありませんでした。

 

 それが、昨今では、簡単に持ち歩けるスマホや、どこでも設置可能な小型カメラにより盗撮して、それをSNSで広く他者に公開することが流行しています。

 

 今回の事件では特定のグループ内でのコンテンツ共有だったようですが、不特定多数に対して公開し、他者がそれをまた再投稿することによる拡散現象を喜ぶ者も世の中にはいます。中には、明らかな嫌がらせの目的でこうした拡散を行う者も存在します。

 

 実は後者のほうが、していることに自覚的であると言えるかもしれません。つまり、前者は、自分たちが何をしているのかよく分かっていないのではないかと思われるのです。

 

 美しい女児が好きである、これは明白な感情的事実です。しかし、その写真を撮り他者と共有すること、しかも性的興奮を刺激するような盗撮なのだとすると、これは既にネジが狂っているのではないでしょうか。

 

 感覚がほぼ昆虫採集です。違うのは、性欲が伴っていることくらいでしょう。小児性愛の目的は既にすり替わって、盗撮そのものになっています。子供が好きだという当初の思いの何事も達成されません。達成されないが故に、盗撮行為の再生産が続くばかりです。

 

 楽しみは唯一、同好の士との交流でしょう。これも昆虫採集の場合と変わりません。

 

 やがては子供が生きた人間だという感覚すら鈍り、事の善悪も感じなくなります。講師として授業している時の感覚は保ちながら、それとは別な下心ある目を並行して光らせ、盗撮のネタと機会を狙います。人間が分裂している状態です。

 

 このような人たちは、自分のペドフィリアをどうするつもりだったのでしょうか。

 

 例えば、その人の性対象が13歳以下であり、その相手と性交の合意があることを認めるかどうかということは、その社会の思想的風潮や文化に関わる問題です。けれども、個人の肉体的恥部などを盗撮し、それを当人の知らない人と共有したり、不特定多数に拡散したりすることは、動機からして悪事でしょう。

 

 SNSは、その感覚を麻痺させる媒体になり得るものです。

 

 小児性愛者は、何を自分が動機として、どのように行動しているのか、自己を見つめなければなりません。

ペドフィリア差別や擁護に反対することについて

最近、旧Twitter上で、「ペドフィリア差別に反対します」「ペドフィリア擁護に反対します」というタグが物議を醸したようです。

 

あくまでも旧Twitter上での事なので、大したことではないとも言えるでしょう。

 

ただ、世間一般に話が広がったとしても、注目度や理解度などから、同じような反応の結果になるだろうとは予想できます。

 

特に後者に関して、コメントでは、かつて同性愛などに向けられていた差別的表現がペドフィリアにはまかり通っているという指摘があります。

 

同性愛に比べ、ペドフィリアは対象が子供である分、批判者は感情的になる傾向が強くなる。それは理解できる事です。

 

但し、当の小児性愛者にとっては、差別されようが擁護されようが、どうでもいい事なのだと言えるでしょう。

 

子供に認められて愛されさえするなら、他は全く無意味だからです。

 

小児性愛者のコミュニティーなど、ほぼ無意味なものです。そこに価値があるとすれば、この苦しみを背負う人間が自分だけではないという慰めです。

 

しかし、傷を舐めあっても先には進めません。子供に認めてもらうのでなければ。

 

これが、同性愛者や性同一性障害者とペドフィリアとの違いです。

人のせいにするのはやめよう

 一体なぜ自分はロリコンなどになってしまったのか。自身のペドフィリアに気付いた時、人はそう自問します。そして原因をいろいろと探り始めます。

 

 あの時のあの出来事がきっかけだったのではないか。育てられ方に問題があったのではないか。脳の一部に欠陥があるのではないか。

 

 ナボコフの『ロリータ』にも、幼い主人公が、幼い恋人と性関係を持とうとする場面を人に見られて揶揄われるシーンが主人公の回想として出てきます。

 

 理由を探ることは自然な行動ですが、明確にすることは難しいものです。物理的な出来事の因果関係と違って、証明などはできませんし、同じ人間も同じ時代的状況も存在しないことから、実験的にこれが起こればこうなるといった一般化もほぼ不可能です。

 

 そのような条件下にあっても、ペドフィリアの原因を親や他者のせいだと思ってしまう事は有りがちです。何より分かりやすいからです。幼い頃に性的な事をされた嫌な記憶、今の言葉で言えば「虐待」された記憶が、最も原因として考えられやすいのではないかと思います。

 

 その事実自体に認め難い感情を持つのは分かります。それが無かったら、自分はこうではなかった筈であると思うと、強い自己憐憫と相手への憎しみとが湧いてきます。

 

 ペドフィリアに限らず、性的な傷と感じられた事は同様の思考と感情を促し、それは対象が広げられて、何らかの権利運動のようなものになる事があります。

 

 しかし、ここには罠があります。その事を追及していったとしても、自分の状態が改善されはせず、憎しみと被害者意識ばかり膨らんでいく点です。

 

 病気の場合でも、痛みや苦しみを医者に対して「早く何とかしてくれ」などと思っていると、耐え難いばかりか、医者への憎しみすら覚えてきます。

 

 病気も心の傷も、自分の問題としてまずは捉えてしまう方が精神的には安定するようです。

 

 曹洞宗僧侶の南直哉氏は、著書『善の根拠』(講談社、2014年)その他で、自分を認めて親を許せというような事を述べていますが、主体的に生きるにはそれしかないと考えるからでしょう。

 

 仏教含む宗教の輪廻転生思想ではよく「自分が親を選んで生まれてきた」とか「自分の運命は自分が決めてきた」と言います。南直哉氏は、そんな事はあり得ないと、輪廻転生思想自体を否定しているらしいのですが、考えようによっては、自分に起こる不幸は自分が望んできた意味のある事だと捉えると、より積極的に人生を生きられるのかもしれないと思います。それは、誰をも責めず、よそに責任の所在を求めない考え方です。

 

 自分は求めてペドフィリアを備えるようになった。それが自分に必要であり、成長の糧だったからだ。

 

 その観点から人生を捉え直してみませんか。

裸体を目にする必要性

 日本では、異性の裸を目にする機会が近年ますます減っているような気がします。

 

 日本人の、南アジアとの文化的繋がりを指摘した民俗学者がかつて言っていたのは、日本人はよく裸になるということでした。半世紀前には夏に上半身裸で団扇などを扇いでいる男性が普通に見られましたし、温泉の混浴も珍しくありませんでした。

 

 しかし、近ごろでは、混浴などほぼ無くなり、裸の男性など全く見かけず、水着でさえなるべく肌を見せないものが増えてきています。

 

 野外でおしっこをする子供も見かけなくなりました。

 

 こうなると、却ってちょっとした肌の露出に注目が集まることになります。

 

 かつて私がヨーロッパで経験したのは、若い女子が腋毛を普通に生やしていたこと、背中まで見せる女子高校生の夏のいで立ち、それどころか、ノーブラで乳首の形のよく分かる二十歳過ぎの女性のシャツ姿、そして男女混浴のサウナでした。

 

 ドイツで私は小学生の女子の腋毛というものを生まれて初めて目にしました。また、夏には緩い大きめのランニングシャツでいる子供が多く、ごく膨らみはじめの乳房が見えることもよくありました。それらを見て緊張したのは私くらいでしょう。そんな子供が普通なら、敢えて気にする者はいないのです。

 

 混浴のサウナは結構衝撃的でした。鉱泉を使ったプールとサウナのある場所でしたが、プールで泳いでサウナに入ったら、全員全裸だったのです。老若男女いました。日本の混浴の温泉では、風呂に浸かっていない時には体を隠すのでしょうけれど、ここでは真っ裸です。サウナ室の中だけでなく、サウナ室のある区画全体が着衣禁止でした。四十代以上が多くはありましたが、二十代の女性や幼児も小中学生もいました。

 

 また、当時学生だった私は、着替える必要のある或る授業を取っていました。更衣室はありませんでした。そこで、女子学生も下着だけになって着替えていました。これにはなかなか慣れませんでした。

 

 屠畜や死や出産など、生きていることの生(なま)の現実に触れる機会が現代人には稀になっており、野菜も店にある状態でしか知らないような無知が広まっています。映像では人が死んだり殺したりの場面に慣れ親しんで何とも思わないのに、実際に人から殴られたことがない子供や若者は沢山います。

 

 身体的な感覚と体験とが薄れ、情報と空想が過多になっています。これではまともな世界観は形成されないでしょうし、自他に対する大きな事故を起こしかねません。

 

 異性の裸や子供の裸を目にすることのない日常も同じことです。