小児性愛者(ロリコン、ペドフィリア)のために考える

小児性愛者(ロリコン、ペドフィリア)のためになることを考えていきます

虐待という語をやめよ

 児童虐待という言葉をよく耳にしたり目にしたりします。誰が使い始めたのでしょうか。

 虐待とは、極めてきつい表現です。そこに児童が付くと、なおさら過激な印象を受けます。恐らく、この言葉を使い始めた人たちは、その印象を与えることも意識していたことでしょう。

 児童に不利益をもたらす物事は全て虐待と捉えられかねません。

 そして、この言葉は、その児童がどう感じるかに関係なく、用いられます。例えば、ある小学生の女の子が、あるペドフィリアの男性に自分のパンツを意図的に嗅がせたとしても、これは男性が女の子を虐待したという事になるのでしょう。

 一体、誰の判断なのか。放っておけば何の問題にもならず、子供に忘れられていくような、子供からの行動であっても、虐待とするその基準は何なのか。第三者がその体験をほじくり返すことで、却って子供を傷つけることになるとは考えないのか。

 子供が健全に育つことに悪影響を与える危険のある大人との関係を全て虐待と呼ぶなら、ワクチンを打たないことも虐待であり、紫外線を含む日光に当たらせることも虐待になりかねません。身分制度に合わせて子供のあり方を規定して教育を施していた江戸時代のことを考えるなら、全員が虐待者と言われざるを得ないでしょう。

 アメリカでは、異性の親が子供と入浴しても虐待になるそうですが、これは一種の社会的精神障害状態なのではないでしょうか。

 あまりにもヒステリックであり、他人を糾弾するのにもってこいの、虐待というような単語は止めるべきだと私は思います。