小児性愛者(ロリコン、ペドフィリア)のために考える

小児性愛者(ロリコン、ペドフィリア)のためになることを考えていきます

ニーズは何か?

 前々回、ペドフィリアの最終的な目的は、子供と恋愛関係になってセックスすることだと書き、意識できる表層的な思考においてはと加えました。

 

 では深層においてはどうなのでしょう。ペドフィリアの自己像が「傷ついた子供」であることは、これまで何度も指摘してきました。であるとすれば、その目的が「子供とセックスすること」である筈がありません。

 

 そして、傷ついた子供であるのに、表面上、母親の愛であったり、歳上とのセックスなどを求めない点も謎の部分です。

 

 しかも、重要な事として、ペドフィリアが子供の体格自体に強い魅力を感じており、童顔で豊満な肉体の女性であったり、自分の思い通りにできる弱い存在であったりを求めているのでない事があります。

 

 「性の逸脱」を著したイギリスのアンソニー=ストーは、ペドフィリアが子供に惹かれるのは、子供が些細なことに喜んでくれたり、懐いたりしてくれる優しい存在だからだということを書いています。

 

 裏を返せば、そこには大人への不信や、もっと広く、人に対する信頼・安心への渇望があるのではないでしょうか。この意味では、愛着障害に極めて似ているというか、問題を共有しているものと見えます。

 

 但し、そういう不信や渇望があれば皆が小児性愛者になるとは限りません。

 

 何が原因で小児性愛者になるのかは、不明です。

 

 これまで、さまざまな視点に立って、そこから見える改善策を提案してきました。だから、視点が違えば互いにその策も矛盾するものになり得ます。

 

 それでも、原因が特定できないのであれば、いろいろな面から考えを進めていくしかありません。

 

 それにしても、社会で他者とそれなりに上手くやっていく処世術を身に付けるのでなく、果たして人を本当に信頼できるようになれるのでしょうか。

 

 これには、認知療法のように、認識に働きかけていくのでは効果がなさそうです。物事の捉え方のパターンの問題ではないのですから。

 

 では、サイコドラマのように、演劇の形で感情を露出させて、その後に気付きを求めるやり方はどうかと言えば、何か明確な心の傷の原因がある場合には、効果がありそうです。しかし、ペドフィリアに関して、そういう特定できる原因が不明なのです。しかしながら、感情を露呈してみると、何かは発見できる可能性があります。

 

 もう一つ、作業療法のように、心理的問題点にフォーカスして拘ることなく、肉体的に目の前の現実と関わっていくことはどうでしょう。子供を前にする機会がなかったり、自分の時間を持つ余裕がないほどであったりすれば、小児性愛の発現する間もないかも知れませんが、本質的に変化するかどうかは分かりません。

 

 愛着障害についても、治療的アプローチには、上記の方法より、安心できる場や人の存在を感じさせることが大切なようです。

 

 ところで、突飛な話をしますが、酷い心の傷や絶望感がたちまち癒されて、嬉しい気持ちで世の中を明るく見ることができるようになり、それによって人生が変わったという事例を中心に挙げている宗教団体があります。

 

 「キリストの幕屋」という名前のそこでは、激しいとも言える全身全霊の祈りによって、「コンバージョン(回心)」を体験していきます。それは、生きたキリストとの出会いであり、正に自分を変えられる体験なのだそうです。

 

 創始者の手島郁郎氏も、コンバージョンの体験から、キリストの幕屋を始めました。

 

 洗脳でもなんでもなく、一堂に会した人々が、それぞれ自分の絶望感を言葉にして、キリストに対し、助けてくださいとそれをぶつけるように祈ります。叫び、泣きながらの各自の祈りには迫力があります。

 

 過去のいわゆるトラウマや、不幸な子供時代の経験等も、コンバージョンによって、恵みとして意識されるようになり、喜びが湧き上がってくるのだそうです。

 

 同団体の発行している『生命の光』誌には、毎号、それらの体験が載せられていますが、私も実際に、何人かの体験者から話を聞いたことがあります。

 

 ここで瞑想の話をした時に書いたとおり、宗教的な行為には、見過ごせない効果があるようです。

 

 やるせない絶望感から、神様などの不思議なものにすがろうとして、危険なカルト宗教信仰に人は陥り、同時にそのカルトを太らせて、社会を危険にしていくのだとも言えるでしょう。そういった事例があることも事実です。

 

 しかし、十把一絡げに宗教を危険視することは幼稚でしょう。古来、人の心と人生に光を与える事を目的としてきた宗教には、そのための技法が多く伝えられている筈です。

 

 五木寛之氏による浄土真宗的な人生論や、南直哉氏らによる禅的なそれに人気が高まっているのも、そこに現代を照らし出す智慧があるからでしょう。

 

 キリスト教と言えば、ヤクザからプロテスタントの牧師の道へ転向した人たちの記録に『親分はイエス様』(講談社、2001年)がありました。

 

 そこにも、キリストによって「変えられた」体験が記されています。

 

 確かに「親分はイエス様」とあるように、造物主の愛を感じられたとしたなら、大人への不信や、人への信頼と安心感など、小さい事なのに違いありません。